津田沼教会 牧師のメッセージ
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「道を備えよ」(ヨハネ1:19-28)
ヨハネ1章19節-28節、2014年12月14日、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書61章1節-4節、テサロニケの信徒への手紙一5章16節-24節、讃美唱301(ルカ1章47節-55節)、302(ルカ1章68節-79節)

ヨハネによる福音書1章19節-28節
 
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表わした。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアの出来事であった。



説教「道を備えよ」(ヨハネ1:19-28)
私たちは、今日、初めの歌として教会讃美歌7番「道を備えよ、シオンの町よ」で始まる讃美歌を歌いましたが、私はここから、今日の説教題をつけました。
もちろん、道と言いましても、それは「主の道」、メシアが来られる道を準備することであります。
ヨハネによる福音書によれば、この洗礼者ヨハネの荒れ野で叫ぶ声から、実際の歴史の中での救いの出来事、主イエスの到来は始まっているのであります。
「さて」すなわち「そして」ヨハネの証しは次のようであったとこの部分はさりげなく開始しているのであります。
すなわち、エルサレムからのユダヤ人たちは、祭司長たちやレビ人たちを遣わして尋ねるのであります。あなたは、メシア、キリストですかと。
洗礼者ヨハネは、私はメシアではないと、告白して、拒まずとあります。「拒まず」、これは、そう答えることを侮らず、はっきりという意味であります。
では、エリヤですかと聞かれると、私はそうではないと断言し、では、あの預言者ですかと聞かれると、いいやときっぱり答えます。
3回否定し、それもだんだん短く答え、強調されています。終末の時に、メシアに先立って、あの火の戦車で天に上げられた預言者エリヤが再来すると信じられていました。また、モーセも、自分のような預言者がイスラエルの中から、神によって立てられると申命記18:15にあって、終末に現れることが期待されていました。
エルサレムのユダヤ人たち、当局、ユダヤ教の指導者たち、サンヘドリンの権力者たちは、メシアの到来を予期し、むしろ、自分たちの現状維持のために、それを不安に思い、恐れていました。
しかし、ヨハネは、その三者、メシア、エリヤ、預言者のいづれでもないと断言していたのであります。
それでは、自分を何だというのか、教えてもらいたい、自分たちを遣わした者たちに答えを持って帰らねばならないと彼らが迫ると、彼は、自らこう答えるのであります。
私は荒れ野で叫ぶ声である、預言者イザヤが言ったとおりと(イザヤ40:3)。洗礼者ヨハネは、他の3つの福音書とは違って、ヨハネ自ら、私は、荒れ野で叫ぶ声であると宣言するのであります。
私たちは、今、み子イエスの誕生を祝うために、アドベントの時を過ごしていますが、それは、この洗礼者ヨハネにならって、メシアのお出でになられるのにふさわしく、主イエスの来られる道をまっすぐにするようにと世に向かって告げることであります。
主イエスは、まことの永遠の言葉、ロゴスでありましたが、洗礼者ヨハネは、そのことを告げる一時の「声」に過ぎないというのであります。
自分は、メシア、キリストではないばかりか、それに先立つエリヤでも、かの預言者でもない、単なる荒れ野で呼ばわる声であるというのであります。
人々が、まことの光であるキリストを見出せるように告げる一時の声であると、私たちも証言しながら、人々にキリストを指し示す者となりたいものであります。
そして、洗礼者ヨハネは、あなた方の立っているその中に、そのお方が既にやって来ている。そして、私は、水において洗礼を授けているが、その方は、聖霊において洗礼を授けなさる。すなわち、まったく新しい救いの時代が始まりつつあると宣言しているのであります。
そして、私の後に来られるそのお方のその片方の履物のひもを解くのにも、私は値しないと、はっきりと、エルサレムからのユダヤ人たち、特に後半ではファリサイ派の者たち、特にヨハネ福音書の書かれた時代に猛烈に、キリスト教徒たちを迫害していたグループの者たちに向けて、証言しているのであります。
そして、それは、ヨルダン川の向こうのベタニアでの出来事であったと明記し、現実の場所と時が記されて、救いの出来事が私たちのこの世界で実際に始まったこと、又今も我々の身近なところに、救い主がお出でになることを示すのです。
 私たちも、主の「道を備え」る者となりたいものです。アーメン。













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2014/12/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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