津田沼教会 牧師のメッセージ
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「喜び待ち望みつつ」(マルコ1:1~8)内海望牧師
マルコ1章1節-8節、2014年12月7日、待降節第2主日(典礼色―紫―)、イザヤ書40章1節-8節、ペトロの手紙二3章8節-14節、讃美唱85/1(詩編85編2-8節)

マルコによる福音書1章1節-8節
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 
 説教「喜びの時を待ち望みつつ」(マルコ1:1-8)内海望牧師

 私たちは、待降節(アドベント)の時を歩んでいます。待降節とは文字通り、「降誕(クリスマス)を待つ時」です。「降誕」とは神の独り子であるイエスさまが、救い主として、私たちの所に来られたという喜びの訪れを指します。
 このような時期に、改めて、「イエスさまが私たちの所に来られたということの意味を考えることは大切だと思います。それは、フィリピ書のいわゆる「キリスト讃歌」によく示されています。(フィリピ2章6-8p363)。ここで、降誕という出来事が、いかに驚くべきものであったことが分かります。神さまの独り子であるイエスさまが、私たちの罪を赦すため、神の子としての身分を捨て去り、自分を無とし、私たち罪人である人間の仲間となり、しかも僕として私たちの罪を担って十字架に死んで下さったというのです(Ⅰテモテ1:15p383)。ルターが言うように「悪魔も震えおののくほどの出来事」なのです。この世界が、決して神さまから見捨てられた孤独な世界でなく、神さまの愛の内にあることを知らされる時なのです。確かに、「降誕」の「誕生」という意味が示すように、クリスマスは、イエスさまの誕生を喜ぶ時ですが、同時に。そのイエスさまが、私たちを救うために十字架に向かって一歩を踏み出された時であることも忘れてはなりません。教会の典礼色が四旬節(受難節)と同じ紫であり、私たちが、ハレルヤに変えて「詠唱」を唱う理由です。クリスマスの出来事には、思いを越えた深みがあるのです。待望節を通じて通奏低音として十字架、つまり受難の音色が響いているのです。しかし、これは決して暗い陰鬱な調べではありません。暗い夜が明け染め、救いの光が射し込んで来る時を予感させる希望に満ちた響きです。

 さて、今日与えられた聖書に心を向けてみましょう。第一の朗読のイザヤ書40章の時代、イスラエルの民は、絶望の淵に沈んでいました。その時代、イスラエルはバビロニア王国に蹂躙され、最後のよりどころとしていた神殿も破壊されてしまいました。そればかりか、主だった人々は、捕虜としてバビロンに連れ去られて行ったのです。人々は、この苦しみが、神さまに叛いた自分たちの罪の結果だと知っていました。
 そのような絶望の底にあった民に、「慰めよ、私の民を慰めよ。苦役の時は満ち、彼女の咎は赦された。」という神さまのみ言葉が響き渡ったのです。旧約聖書にも福音はあるのです。神さまは、預言者イザヤに、この福音を民に伝えよ(呼びかけよ)と命じられるのです。ところが、イザヤは「出来ません。」と拒みます。「彼らは花や草のように枯れてしまいます。」と答えるのです。イザヤにとって「とこしえに立つみ言葉」と「罪に沈む民」との隔たりは到底埋めつくせないものでした。救われる可能性が全くない民の罪深さを目にしてしまったのです。「彼女の咎は赦された。」というみ言葉を信じられなかったのです。イザヤは、それほど、罪の底に深く沈んでしまった民の姿に絶望しているのです。
 今、共に歌いました讃美歌300番はルターの作詞、作曲による有名な讃美歌です。歌詞は詩編130編から取られています。(詩130:1-3節p973)。イザヤの心境も同じであったと思います。ルターも、自分が神さまから最も遠い「深い淵にある」罪人であることの悲しみを経験した人間でした。
 私たちは、「老い」を恐れ、不安に落ち込むことがあります、病に苦しめられることもあります。不条理な死との出会い、自分の不運に涙することもあります。「どうして、私にこんなことが」と叫びたくなることもあるでしょう。絶望の叫びです。
更に、それに優って罪の思いが、私たちの心を苛みます。悔恨の情と共に眠れない夜を過ごすこともあります。その時、私たちは、ただひたすら「主よ、憐れんでください。」と祈るのみです。
イスラエルの民は、自分たちの苦しみは、神さまから離れ去った自分たちの罪の結果だ感じていました。しかし、その罪が赦され、祖国に帰還することが出来るというのです。このみ言葉は、歴史的には、ペルシャ王キュロスがバビロン王国を滅ぼし、イスラエルの民は祖国に帰還することが許されたという形で実現します。「苦役の時」は終わったのです。しかし、民は罪の淵に沈んだままでした。罪赦される時は来なかったのです。

ようやく、福音書の日課に辿り着きました。イザヤの時から500年を経たのち、「慰めよ」という慰めの約束が、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という形で実現しようとしているのです。イザヤが予想もしなかった形で、「神さまと罪人の間にある断絶・深い淵」がつながるのです。
「神の子イエス」。イエスという名前はありふれた人間の名前です。従って、元来「神の子」と「イエス」という名は決して結びつかないのです。しかし、イエスさまは、神の子でありながら、人間を救うために「神と等しいものであることを捨てて、僕の姿を取って、私たちの許に来てくださったのです。「深い淵の底」にまで来て下さったのです。これがクリスマスの喜びです。「キリスト」という言葉は、よくご存じのように「救い主」と言う意味です。「イエス・キリスト」と言う時、見棄てられたと思うような深い淵に沈む私たちの所にまで神の子・救い主イエスが来て、共にいて下さるという出来事を意味するのです。イエスさまの来臨によって、私たち人間の努力ではどうしても産めることの出来なかった深い淵に天と地を結ぶ架け橋が架けられたのです。
「神の子イエス・キリストの死と復活」により、この世界は新しくされ、天と地は切れることのない絆で再び結び合わされたのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
しかし、それでも私たちは日々罪を犯す罪人です。私たちは決して天国にふさわしい人間ではありません。パウロと共に「神の子とされることを、心の中で呻きながら待ち望んでいる者」(ロマ8:23)です。
「福音の初め」。その意味は、確かに、夜は明け染め、太陽の輝きの予感はしますが、まだ地にあまねく太陽の光は渡ってはいないのです。私たちは、「既に」と「未だ」の間に生きているのです。新しい天と新しい地の出現を「マラナタ。主よ、来てください。」と待ち望む時なのです。
しかし、確かに、贖い主、救い主イエスさまは、私たちと共におられます。私たちが、救い主の許に到着したのでなく、イエスさまが私たちの許に来て下さったのです。ここに揺らぐことのない救いの確かさがあるのです。私たちは、洗礼を受けても日々罪を犯すような恩知らずです。そのような自分の姿に落胆することもしばしばです。しかし、確かにあのクリスマスの夜、イエスさまは私たちの許に来て下さったのです。この事実を悔い改めと感謝の心を持って信じましょう。
ルターは大胆にもこう語ります。「悪魔が私たちの罪を数え上げ、私たちは死と地獄に値する」と言いました。『私は私が死と地獄に値することは認めます。それが何だというのですか。それは、私が永遠の呪いの判決を受けたということですか。断じてそうではありません。何故なら、私は、私に代って苦しみ贖って下さった方を知っています。彼の名は、神のひとり子イエス・キリストです。イエス・キリストのおられるところに私もいます。』と。赦しの確かさは、私たちの内にではなく、イエス・キリストにあると言うのです。これほど確かなものはありません。
さて、この終わりの日を待つことについて、今日の第二の朗読であるⅡペトロ3章9節は「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と記しています。そうなのです。私たちが「待つ時」は、神さまの側から見れば、神さまの愛における忍耐の時なのです。「一人も滅びないで」という言葉が心を打ちます。そこで神さまは私たち一人一人のことを思って忍耐の時を過ごして下さっているのです。このことを心から喜びながら、同時に、砕かれた心からの悔い改めの時として待望節を過ごしたいと思います。「悔い改め」は自虐的な悔恨の情ではありません。神の子救い主イエスがこの世界に来られたという確かさの上に立った、慰めの中で、救いを信じ自己変革される時です。
私は、「喜びを待つ時」という説教題を、「喜びを待ち望む」に変えました。それは、クリスマスの出来事によって、私たちの「待つ」は「じれったい思いで待つ」のでなく、確かな希望において待つという積極的な姿勢に変えられたからです。
どんなに深い淵の底にも、イエスさまは来て、共にいて下さることを信じ、砕かれた新しい心を持って、神さまの救いの御業の完成する時、終わりの日を待ち望みつつ共に歩みましょう。
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2014/12/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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