津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスがお出でになる」(マルコ11:1-11)
マルコ11章1節-11節、2014年11月30日、待降節第1主日(典礼色―紫―)、イザヤ書63章15節-64章7節、コリントの信徒への手紙1章3節-9節、讃美唱98(詩編98編1-9節)

マルコによる福音書11章1節-11節
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。 
「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「イエスがお出でになる」(マルコ11:1-11)

 今日から、聖壇で用いる布も、紫となって、アドベント、待降節に入りました。教会暦においては、新年であり、皆さん、新年おめでとうございますと言いたいと思います。世の中の新年にちょうど一か月ほど早く、私たちは、教会では今日から、ニュー・イヤーであります。
私たちは、1月1日の元旦の朝から、新しい一年の計画を立てるように、新しい一年の思いを今日から新たに胸にしたいものであります。
 私事としては、この一年はとても厳しいものがありましたが、それも神さまからのご計画、摂理のうちにあったと思います。
今、思いますことは、これからの一年間は、日曜日の礼拝を中心として、信仰生活をやりかえよう、そして、どうしても夜型になりやすい生活を、朝型にしよう、そして、朝日と共に一日を始める規則正しい生活にしたいと思います。
 さて、アドベントの最初の日曜日に与えられる聖書の個所、特に福音書の個所は、主イエスのエルサレム入城の記事であります。
 これは、カトリック教会では、アドベントの第一主日のペリコペーにはなっていないようであります。このルーテル教会の伝統がどこから来ているのか、私は知らないのですが、とにかくルーテル教会では、今の青色式文ではそうなっており、ここが読まれ、来年の三月の頃の枝の主日、受難節の最後の日曜日である受難週の初めに、主イエスが文字通り、十字架におつになるために入城なさる場面として、一年に二度も読まれます。
 それが、今日、一年の教会暦の初めの日曜日のアドベントに、そして、主イエスのご降誕を祝うクリスマスの前の喜ばしい時期に、読まれるのはなぜなのか、それをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、お気づきのように、今日からは、主たる福音は、マルコ福音書であります。マルコ福音書は、4つの福音書の中では一番古く書かれました。伝説では、ペトロの通訳であったマルコが書いたとも言われています。
4つの福音書の中では、素朴で、時にはぎこちないとも思われる文章も見られますが、逆に生き生きとした主イエスの生きざまが伝わってくる福音書ということもできるでしょう。
 今日の福音、マルコ11:1-11を思い起こしながら、再びお出でになられる主、来臨(パル―シア)のメシアについて考えていきましょう。
 主イエスの一行は、エルサレムへと、そして、オリーブ山のふもと、ベテファゲ、ベタニアへと近づいてきます。順路としては、ガリラヤから進んで行けば、ベタニア、ベトファゲと書くべきでありますが、エルサレムから見て、ベトファゲへと、ベタニアヘトやって来たと記者は記しているのでしょうか。
そのとき、主イエスは、二人の弟子を遣わして言います。向こうの村へ行きなさい。そうすると、まだ人をだれ一人乗せたことのないろばの子がつないであるのを、あなた方は見出す。それをほどいて、連れて来なさいと。
この二人の弟子がだれであったのか、記されていません。ペトロとヨハネであったのか、それとも兄弟、ペトロとアンデレであったのか、ヤコブとヨハネであったのか。この後でエルサレムで過ぎ越しの食事の準備をする時にも、今日と同じように、二人の弟子が遣わされて行って、水がめを、頭にのせた人に出会い、二階座敷の食事をする家へと案内される出来事が起こり、主イエスの言われるとおりに、事が運んで行くことが記されていますが、そこでも二人の弟子の名前は記されていません。主イエスの言われた通りに、事が運んで行くのです。
 さて、主イエスは、さらにその際、こう言われます。もし、だれかが、なぜそんなことをするのか、と聞いたら、こう答えなさい。主がお入り用なのです。またすぐ、ここにお返しになりますと。これは、もとの文をみると、「彼の主は必要を持っている」になっています。彼の主とは、その子ろばの主人、すなわち、飼い主が、あたかも主イエスの弟子たちのもとにいて、その承諾のもとに、自分の子ろばを連れに行かせたかのようです。しかし、それでは何も不思議なことではなく、あえて記すまでもなかったでしょう。
 あるいは、その主とは、神さまとも考えられます。神はすべての被造物の主であり、創り主であるからです。
 しかし、やはり、ここでは主イエスご自身のことを指して言われたのではないでしょうか。当時の世界の王は、そのような懲役権を持っていました。主イエスは、来られたメシアであり、まことの王であって、この世の王と同じように、子ろばをも必要として、召しだされるのであります。軍馬ではなく、子ろばを、しかも、まだだれも人を乗せたことのない新しい子ろばを要求なさるのであります。この世界にお出でになったまことの王にふさわしくご用とされた子ろばであります。
 わたしどもも、この世界の罪を贖うために来られたこのまことの王にご用のために、必要だと言っていただける新しいものでありたい。それは、ちょうど、十字架に息を引き取られた主イエスが納められた墓がまだだれも納められたことのない墓であったのとつながるかのようです。
 こうして、二人は、出て行くと、村に入ってすぐ、通りの戸口に向かってつないであるろばの子を見つけ、ほどいていると、そばに立っている者たちのある者たちが、そんなことをしてどうするつもりかと聞きます。主イエスの言われたとおりに言うと、彼らはそのまま、行かせてくれます。主イエスの言われるとおりに信じて、進んで行った弟子たちはその通りに事が進んで行く不思議な体験をして、戻って来ます。
 そして、主イエスのところに子ろばを連れてくると、二人は、その子ろばに自分たちの着ていた服をしき、主イエスはその上に乗られます。そして、多くの者は、自分たちの服を、その前にひろげ、また他の者たちは、野から葉の付いた枝を切って来て、しいていました。王を迎える入城の行進が、期せずして整ったのです。そして、群衆は、歓呼の叫び声を上げ、ホサナ、私たちに救いを!主のみ名によって来られる方は祝福されるように。来たるべき父ダビデの国は祝福されるように、いと高きところでは、ホサナと、期せずしてメシアの王である方イエスは、勝利のエルサレム入城を果たします。そして、急にエルサレム神殿の境内において、自らを見出された主は、もはや祭司らの歓呼は一切なく、それを見据えられた主は、夕方になったので、12人と共にベタニアへと退かれるのであります。私たちは、クリスマスを迎える前に、アドベント、主のご到来のとき、来臨(パル―シア)の王の勝利の入城に備えて、この方に用いていただけるように、心を慎ましく一年の歩みを始めたい者ものです。そして、その後に、私たちの救い主が、罪の贖い主として、2000年前にまぶねの中でお生まれになった出来事を心から祝いたいと思います。
 皆さまの新しい一年の歩みの上に、神さまの祝福が豊かにありますように!
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2014/11/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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