津田沼教会 牧師のメッセージ
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「祝福された人生を」(マタイ25:31-46)
マタイ25章31-46節、2014年11月23日、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書34章11-16節、23-24節、テサロニケの信徒への手紙一5章1-11節、讃美唱95(詩編95編1-9節)

マタイによる福音書25章31節-46節
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


説教「祝福された人生を」(マタイ25:31-46)
 
今日は、マタイ福音書と共に歩んだ一年間の教会暦の最後の日曜日です。私たち、ルーテル教会では、この日を聖霊降臨後最終主日と言っていますが、カトリック教会では、この年間最後の主日を「王であるキリスト」の主日と読んでいます。
 一年間、マタイの主だった個所を、ペリコペー、聖書日課として与えられていて、日曜日ごとに味わって過ごして来ましたが、今日はその最後の主の日です。
 マタイによる福音書では、五つの大きな、主によってなされた説教が記されていて、今日のテキストは、その五番目のしかもその最後の部分となっています。
 その五つの説教の後には、必ず、「主イエスは、これらの言葉を語り終えられて、どこそこへ移られた」などとなっており、今日の個所のあともそうなっています。
 この五番目の説教の部分は、主イエスの来臨について、終末について語っており、それに備えて目覚めて生きるようにとの譬え話などが、中に含まれています。
 今日の個所は、その中での最後の部分であり、主イエスが来臨される時の、いわゆる最後の審判について語られているみ言葉です。
 主イエスは言われました。人の子が栄光において、すべての天使たちと共に来るとき、彼は王座に座るであろう。そして、すべての民が集められるであろう。そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼は、彼らを、自分の右と左により分けるであろう。
 そして、その王は右側の者たちに、言うであろう。「さあ、お出でなさい、祝福された者たち、あなた方は、世界の初めから、父によって用意されているみ国を受け継ぎなさい」と。
 それは、心の貧しい者たち、あるいは、私のために迫害されている人たちは、幸いだ、天の国はその人たちの者である、と言われた主イエスの言葉を、あるいは、柔和な人々は幸いだ、彼らは地を受け継ぐであろう、という主の言葉を思い起こさせます。神の国を、あなた方、右手の者たちは、受け継ぎ、その救いの約束を享受するであろうと言われるのです。
 そして、なぜなら、あなた方は、私が飢えていたのを見て食べさせ、渇いていたのを見て飲ませ、よそ者であったときに集まってくれ、(私の仲間となってくれ)、裸だったときに、着せてくれ、病気だったときに見舞い、獄にいたときにやって来てくれたからだと」。
 その時、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ、いつ、私たちはあなたが飢えておらたのを見て食べさせ、渇いておられたとき飲ませ、よそ者であったとき、やって行き、裸のとき、着せ、病気のとき、獄におられたとき、訪ねましたか」と。彼らは、主に対して、憐れみの行為をしたという意識はまったくありません。
 そのとき、その王は、こう答えるというのです。「はっきり言っておくが、私のこの最も小さい兄弟のうちの一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのである」と。寄る辺なき小さい者、弟子である者、教会のメンバーの一人にした、あなた方の憐れみの行為は、いけにえではなく、憐れみを求めるために来たといわれるイエスが、それは私にした行為なのだと言われます。
 そのとき、この王は、左手の人々にも、言います。「ここから出て行きなさい。呪われた者たちよ、そして、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火へと入れ。なぜなら、あなた方は、私が飢えていたのを見て、食べさせず、渇いていたとき、飲ませず、よそ者だったとき、やって来てくれず、裸のとき着せず、病気だったとき、獄にいたとき訪ねてくれなかったからだ」。
 その時、彼らも答えて言います。「主よ、いつあなたが、飢えており、渇いており、よそ者であり、裸であり、病気であり、獄にいたのを私たちは見て、お世話をしなかったでしょうか」と。彼らは、イエスにはお世話した、ディアコニアのもとのディアコニオーという言葉ですが、奉仕するとか、給仕するという意味ですが、主イエスに対しては自分たちは仕えたと言いたいのであり、そう信じているのです。
 その時、王は、答えて言います。「はっきり言っておくが、この最も小さい者の一人に、あなた方がしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」と。
 主イエスは、最後にこう断言されています。この者たちは、永遠の罰へと出て行き、あの正しい者たちは、永遠の命へと出て行くであろうと。
 今日のこの主イエスの語られた言葉は、世の終わりのときに、人の子、すなわち、御自分が王としてお出でになる時のふるい分け、裁きの言葉でありますが、それは、現在の私たちのこの教会に、主イエスが現臨されていて語られている言葉でもあります。
 私たちが、教会の中で、小さい者、寄る辺のない者に対して、助けの手を差し伸べているだろうか、との問いかけでもあります。
 また、主イエスの言われる「最も小さな私の兄弟たちの一人」に、あるいは「この最も小さな者の一人」とは、もともと教会の弟子たち、イエスの弟子たちのことを指していますが、マタイは、イエスの福音が全世界に宣べ伝えられたのちに、人の子が来る、終わりの日が来ることを考えていましたから、寄る辺のない者たちに、憐れみの行為をしなかったのは、すべて、主イエスにしなかったことになります。
 マタイのイエスは、あなた方の義が、すなわち、神の意志に適ったふるまいが、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国には入れないと言われます。主よ、主よと言う者が、すべて天の国に入れるのではなく、天の父のご意志を行う者が入れると、言います。
 今日の主イエスの終末についての最後のみ言葉は、私たちが、主イエスのみ言葉への信仰、キリスト信仰を受け入れるのか、それとも拒むのかの問いを、私たちに突きつけるものですが、それはまた、私たちが寄る辺のない者たちへの憐れみのふるまい、よき行いへと私たちを励ますみ言葉でもあります。
「祝福された人生」とは、私たちが、主イエスの言葉を聞いて、受け入れ、目覚めて、それを今、この時、教会の中で、また、私たちの出会う隣人との交わりの中で、行っていく道であり、それは、主イエスのように私たちもまた「小さくなり」「憐れむ者」となり、そしてまた、「小さい者に仕えていく」人生であります。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。










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2014/11/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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