津田沼教会 牧師のメッセージ
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「聖書全てに及ぶ教え」(マタイ22:34-40)
マタイ22章34-40節、2014年11月9日、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)
申命記26章16-19節、テサロニケの信徒への手紙一1章1-10節、讃美唱1(詩編1-6節)

マタイによる福音書22章34節-40節
 
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」





説教「聖書全てに及ぶ教え」(マタイ22:34-40)

週報に次週の説教題をのせる必要もあり、説教の1週間前には、私は福音書の原文を読みまして、そこから説教題と讃美歌を決めることにしています。
今日の題は、そこから、私は1週間前には「全聖書がかかっている教え」というふうに付けておきました。しかし、家内がそれを見て、意味がわからないと言い、自分も、今日のこの聖書の個所を読んでみて、よく分からないだろうと思いました。
それで家内は「聖書のすべてに及ぶ教え」と改めて、墨で説教題を早々と直して書いてくれたのですが、教会の掲示板の前を通る一般の市民、地域の方が、説教題を見て分かるように、ということから、毎週説教題は苦労している訳であります。
しかし、私が直接言いたかったことは、今日、マタイの福音書に出て来ました主イエスの宣言なさった終わりの言葉、「この二つの掟において、かの全律法と預言者たちは、懸っている」という言葉を、説教題で表わしたかったのであります。
さて、私たちは、マタイ福音書と共に一年歩んで来ましたが、三年サイクルのA年の教会暦ももう終わり近くなりました。
今日のみ言葉も、主イエスが、最後にエルサレムに入って、論敵たちと論争する中で語られる言葉であります。主イエスが、復活論争でサドカイ派の者たちを沈黙させたことを、聞いたファリサイ派が、一つどころに集まるのであります。
メシアに向かって、この世の王たち、権力者たちが反抗し、集まる者たちの姿が示されています。
そして、その中の一人、律法の専門家が、イエスを試みるために、質問するのであります。「先生、律法の中で、どの掟、命令が大きいのですか」、と問うて来るのであります。 
私たちにとっては、聖書と言えば、旧約聖書と新約聖書ですが、イエスの時代には、旧約聖書だけが聖書でした。その中でも、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、いわゆう創、出、レビ、民、申命記として、旧約聖書の最初に出てくるもので、モーセ五書として、古くはモーセによって書かれたと信じられ、特に大切にされ、いわゆる律法として重んじられていました。
「その中で、どの命令が大きいのですか、すなわち最も重要なのですか」と、この律法の専門家、律法学者は問うて来たのです。
私たちは、人生で色々な体験をして、聖書こそ、まことの道であると気づかされ、他には自分の頼るべき道はないと痛感させられて、教会に通うようになり、また、洗礼をも決心するに至るのですが、何がその聖書の中で、しかも特に律法の中で大事な戒めなのかと、改めて考えさせられます。
それに対して、イエスは、こう断言なさるのであります。
「あなたの主なる神を、あなたのその心の全体において、あなたのその魂の全体において、あなたのその思いの全体において、愛しなさい。これが、もっとも重要な、そして、第一の掟である。第二も、それと同等に、重要である。すなわち、あなた自身を、のようにあなたの隣人を愛しなさい。この二つの掟において、かの全律法とかの預言者たちは、懸っている、基づいている」と。
このもとの文の「この二つの掟において懸っている」という言葉は、主イエスが「十字架に懸かる」というときにも使われる言葉です。主イエスの十字架に懸かる愛を通して、神への愛と隣人への愛は、初めて完成されました。
私たちは、本来、自分を愛するように、自分の隣人、すなわち「自分のそばにいる人」を愛することはできない、自分本位の者であります。
しかし、その私たちのために、愛をまっとうし、そして、ついには、十字架の死を通して、私たちが、イエスのように、隣人を愛し、さらには、敵のためにも祈ることができる者へと変えて下さったことを、私たちは、「この二つに、全聖書は懸っている」と言われる主イエスのこのみ言葉を通して想起させられるのであります。
主イエスは、律法学者が、律法の中でどの掟が一番重要なのかと問うたのに対して、律法のみでなく、「律法と預言者たち」、すなわち、詩編や諸諸も含めて旧約聖書全体が、その権威を、この二つの愛の命令から由来し、与えられていると宣言なさったのです。
イエスは、私たち罪人にとっては、守り難い、旧約の教えである「律法や預言者たち」を廃止するためではなく、それを完成するために私は来たと言われます。
そして、私たちは、最初にも言いましたように、この後、十字架に懸られる主イエスの愛を通して、神を愛し隣人を愛する者に、すべての人を、神に似せて造られた兄弟として愛する者へと変えられます。
そして、この旧約聖書の二つの命令、教えは、別の表現で言いかえれば、箴言3章6節の次の言葉で表わされるでしょう。
「常に主を覚えてあなたの道を歩け、そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」
私たちは、現実には、自分のように、他人を、ましては、敵対するものを、愛することができないことを、思い知らされています。
しかし、主は、心のすべて、たましいのすべて、思いのすべてを尽くして、私たちの全人格をかけて、主なる神を愛するように、行動するように働きかけておられます。
神を愛することは、二心ではできません。
そして、あなたの神を愛することは、あなたの隣人を愛することに等しいと、私たちが毎日のふるまいや、言動の中で精一杯の行動を取るように招いておられます。
そして、マタイのイエスさまは、何よりも、私たちの義、正しいふるまいを求められるお方です。
私たちの義が、ファリサイ派や律法学者の義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないと主は言われます。
マタイの福音書と共に歩んで来ました一年間も、そろそろ終わろうとしています。多くの、豊かな天の国のたとえや、み言葉、なさったみ業と共に歩んで来ました。そして、マタイ福音書の弟子たちは、主イエスの教えを理解することができる弟子たちであります。
私たちも、主イエスの言われる教えを悟って悔い改めながら、新しい人生を、共々に重荷も担い合いつつ、神に罪赦された者として、互いに認め合い、赦し合い、その絆を大切にしながら、歩んで行きましょう。アーメン。


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2014/11/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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