津田沼教会 牧師のメッセージ
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「祝福されているあなた方」(マタイ5:1-12)
マタイ5章1-12節、2014年11月2日、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式―)、イザヤ書26章1-13節、ヨハネの黙示録21章22-27節、讃美唱(34/1、詩編34編2-9節)

マタイによる福音書5:1~12

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

   
説教「祝福されているあなた方」(マタイ5:1-12)
 
今日は全聖徒主日です。津田沼教会では、一年に二度、召天者記念礼拝をしています。全聖徒の日が11月1日ですが、津田沼教会ではバザーが11月3日にありますので、全聖徒主日には十分にもてなしができないこともあり、二度設けているわけですが、本来は今日が正式の全聖徒を覚える日であります。
さて、ここで言います聖徒とは、いわゆる聖人君子といった意味ではなく、自分が罪深い者であることを自覚し、み言葉によって歩むしかないと悔い改め、聖書によって、また、教会につながって生きたすべての信徒を指しています。
 私たちの教会ではさらに、信徒の両親や子供、伴侶などで、生前には主イエスを、罪からの贖い主として公に表明し、洗礼にまでは至らなかった方々をも、その生前の交わりを感謝し、その生涯を思い起こしながら、また、残された私たちの命について改めて深く考えるために、その遺影を持ち寄って礼拝するときとしています。
 さて、今日の第1の朗読、イザヤ書26章では、イザヤは、バビロン捕囚後の城壁の再建を預言していますが、その中で神に従う人の道は平らですと主なる神に対する信頼と感謝を語っています。
 また、第2の朗読のヨハネの黙示録21章の個所では、記者はもはや都の中に神殿を見なかったと記し、全能者である神と小羊とが神殿だからと言い、キリストの体が神殿となると預言された主イエスの言葉が思い起こされます。また、全世界の民が都にやって来るが、小羊の命の書に名が書いてある者だけが中へ入れると、私たちを目覚めさせ、清い生き方へと招くみ言葉となっています。
 さて、今日の福音は、マタイ福音書5章1節から12節です。これは、山上の説教と呼ばれる5章から7章の始まりの部分となっています。ガリラヤ周辺の方々から集まった群衆を癒した後、彼ら、群衆を見ながら、主イエスは山に登って、座ると弟子たちが近づいて来たので、主は口を開いて、この説教を語り始めるのです。
「幸いなのは、以下の者たちだよ、なぜなら、・・だからである」という美しい文体となっており、その幸いな者たち、あるいは祝福された者たちが8つ、ないし9つ出て来るので、8つの幸いとか9つの至福とか言われます。
 主イエスを信じて、生涯を終えた人とは、まさに、今日の主イエスの語られる8つの幸い、9つの幸いで言われている人たちではないかと思います。
 最初に、「心の貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものである」と出て来ます。この心の貧しい人たちとは、もとの文では「霊でもって物乞いをする人たち」であり、次の悲しんでいる人たちも、柔和な人たちも、同じように、窮状の中で、神に頼るしかない、他に手段を持たない人たちであります。
旧約聖書の詩編の中でも、貧しい人が神に訴え、その願いが聞かれることが記されており、貧しい者たちとは、聖書では言い換えると敬虔な人たちでもあります。
 貧しい人、踏みにじられている人、圧迫されている者たちに、主イエスがお出でになられ、この言葉を語られている時、今や、天の国、神の支配が既にあなた方のものであると、主イエスは約束され、宣言されているのです。
 祝福されているのは、嘆き悲しんでいる者たちだよ、なぜなら、彼らは神によって慰められるだろうから。祝福されているのは、柔和な者たち、すなわち、心砕かれた、窮状にある者たち、なぜなら、彼ら、あるいは、あなた方は、地を受け継ぐ、新しい世界を受け継ぐだろうから。
また、義に飢え渇く者たち、自分の力ではファリサイ派にまさる義を行えないと、嘆いている者たちは、神によって満ち足らせられるであろうと主イエスは励ましています。
 後半へ移ると、憐れみ深い者たち、あるいは、平和をもたらす人たちは、それまでの者たちよりは、能動的な態度を示していますが、彼らは、神によって憐れまれ、あるいは、神の子たちと呼ばれようと約束されています。
しかし、彼らも、自分の達成や才能によってではなく、恵みによって、そのような者なのです。
 心の清い者たちは、祝福されている、なぜなら、彼らは神を見るであろうと言われています。神を見た者は死ぬると旧約聖書では信じられていました。しかし、主イエスは、心の内側から、清められた者たちは、神を見いだすであろうと約束されます。
 そして、祝福されているのは、義のために迫害されている者たちだよ、「なぜなら、天の国は彼らのものだから」と、同じ言葉で再び囲んでいます。
 最後の8福、9福は、「あなた方」と変わります。そして、彼らが私のために、あなた方を非難し、迫害しあなた方に対してあらゆる悪口を、嘘をつきながら言うとき、幸いだというのです。そして、喜べ、大いに喜べと言われ、なぜなら、天におけるあなた方の報いは大きいからと、言われ、なぜなら、そのようにあなた方の前の預言者たちに対しても、彼らは迫害したからだと言われるのです。
 主イエスのゆえに、あるいは、義のために、ののしられ、迫害されることが、主イエスの弟子たち、あるいは、マタイの教会の人たちには随伴していました。そして、それは現代に至っても、キリスト者にとって、形こそ違え、同じことが言えるでしょう。
 今日覚えているすべての聖徒の人たちは、今日イエスが語られる一つ一つの言葉によって励まされ、希望を見出していった人たちであります。そして、今生かされている私たちも、同じように、私たちを窮状から救ってくれる神により頼みつつ生きるしかないことを知らされている者であり、主イエスによって、「あなた方は幸いだ、祝福されている」と招かれている一人一人であります。私たちは弱く罪深い者ですが、先人たちの生涯を思い起こしながら、日々励まされつつ、聖書のみ言葉によって歩んで行く幸いを共々に確認したいと思います。アーメン。
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2014/11/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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