津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪からみ子により自由とされて」(ヨハネ8:31-36)
ヨハネ福音書8章31-36節、2014年10月26日、宗教改革主日(典礼色―赤―聖餐式)、エレミヤ書31:31-34節、ローマの信徒への手紙3章19-28節、讃美唱46(詩編46編2-12節)
 
ヨハネによる福音書8章31-36節
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」




説教「罪からみ子により自由とされて」(ヨハネ8:31-36)

私たちは、今日、宗教改革を覚える礼拝に集まっています。そして、一人の兄弟がこの礼拝の中で洗礼を受けることになっています。
さて、言うまでもなく、宗教改革は、1517年10月31日、すなわち、全聖徒の日の礼拝に合わせて、ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に、免罪符あるいは贖宥状に反対して「95カ条の提題」を張り付けたのが、発端となったのです。私たちは、宗教改革500年祭を2017年に控えていますが、改めて、マルティン・ルターが取り戻した信仰の原点であります「信仰のみによって義とされる」との聖書の真理に立ち帰ってみたいと思います。
さて、今日の第1朗読は、エレミヤ書の新しい契約をあなた方の心に記すというエレミヤが受けた主からの預言の言葉でした。かたくなな民であるあなたたちの罪を思い返さず、あなたたちの赦すという主なる神のみ心の預言であります。いわば、新約の預言とも言えましょう。
次に、第2の朗読のローマの信徒への手紙では、律法を私たちは果たすことができず、それは、私たちの罪を思い起こさせ、私たちを絶望させる働きを持つものだが、そこにキリストがお出でになって、この罪なき完全なお方が私たちの罪の償いを果たして下さり、私たちは、律法の行いによるのではなくて、今や信仰の法則によって義とされるにいたったというものでした。
さて、今日与えられている福音は、ヨハネ福音書8章31節から36節の短いくだりであります。ヨハネ福音書は、ユダヤ人たち、特にファリサイ派たちからの迫害の中で、キリストへの信仰を捨てないようにということが意図されて書かれているものであります。
今日の個所も、ユダヤ人たちとの激しいやり取りのなかで、語られた言葉であり、イエスのみ言葉を聞いて、大勢が信じたとあり、それに対して、そのイエスを信じたユダヤたちに向かって、改めて語り出されています。
主は言われます。「私の言葉にあなた方がとどまるならば、あなた方はまことに私の弟子であるだろう」と。そして、「真理はあなた方を自由にするであろう」と続けて言われています。これを、聞いて、彼らは、どうして、あなたは、私たちが自由でないと言われるのですかと、反論し始めます。
そして、「私たちは、アブラハムの子孫、種であるといい、かつて、だれかの奴隷になったことはない」と言い張るのです。ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であることを、誇りにし、自分たちは救いを約束されていると、ローマ帝国の支配下にあっても信じていました。
しかし、それに対して、イエスは、「私はあなた方によくよく言っておくが、罪を行う者は、罪の奴隷である」と父なる神のもとから遣わされた自分を拒む者を、また、この闇と死の世界にあって隷属している私たちの状態そのものを、罪の奴隷と言われるのであります。
しかし、闇は、光を憎むので、受け入れることができないのであります。主イエスは、この世の闇を照らすまことの光であります。そして、偽りではなく、真理として、この世に来られた方であり、私たちを罪の奴隷から、命と真理へと導くために、父のもとから遣わされ、父の命ずるとおりに、行い、語られるお方であります。
主は、次に、短い譬えを用いて言われました。
「奴隷は、一家の中に永遠にとどまるものではない、子が永遠にとどまる」と。相続人、息子が家を継ぐのであり、それは、旧約聖書においても、しもめハガルとイシマエルが、サラの願いによって、アブラハムとイサクの家から追い出された通りであります。
そして、父なる神のもとから遣わされた息子、独り子イエスが、すなわち「子があなた方を自由にするならば、あなた方は本当に自由な者となるだろう」と、主は言われます。
私たちを、死と暗黒の罪の状態から自由な、命と救いへともたらしてくれるのは、この息子であります。このお方のみ罪なく、まことの光として、この世界に遣わされた方であります。
しかし、かたくななユダヤ人たち、特にファリサイ派の者たちは、イエスを拒みました。なぜなら、彼らは、アブラハムを父として持っていたのではなく、悪魔を父としていたからであり、悪魔は、創世記の始めに出て来る通り、アダムとエバをだましたように、偽り者であり、人殺しであるからです。
私たちは、今日、宗教改革を覚えて、み言葉に耳を傾けています。ルターは、1520年の著作「キリスト者の自由」で、私たちはキリストを信じる信仰のみによって義とされており、すべてのものの上に王であるが、また、すべての人に対して仕える僕であると宣言しています。そして、すべてよい木がよい実を結び、悪い木が悪い実をもたらすように、まず信仰、よい人格を求めねばならないのであり、そこからよい行いも出て来ることを強調しています。
よい行いによって救われようとするのではなく、神から遣わされた独り子キリストを信じる信仰によってのみ、私たちは悪魔を滅ぼすことができると言います。それだけで、私たちは、既に救われているのでありますが、私たちは、その後も、自分の生涯が続く限りは、この世で人々と関りながら生きて行かなければなりません。
そこで、キリスト者は、すべての人に仕える僕であるという矛盾するようなルターのキリスト者の自由の第二の命題が出て来るのです。
そして、そこから、私たちは隣人たちに奉仕し、人々と交わり、助ける小さなキリストとして、一人一人この世に遣わされていくのだと「キリスト者の自由」と喜びを語っています。
今日、これから一人の兄弟の洗礼式が行われますが、私たちは、この兄弟を通して始まる神のみわざに目をとめ、また、自分たちの洗礼をも思い起こし、宗教改革を覚える特別の礼拝の日を教会の新たな歩みの時として、この場から出ていきたいと思います。
アーメン。



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2014/10/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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