津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪赦された者として生きる」(マタイ18:21-35)
マタイ18章21-35節、2014年10月5日、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―聖餐式)、創世記50章15-21節、ローマの信徒への手紙14章1-18節、讃美唱103(詩編103編1-13節)
 
マタイによる福音書18章21-35節

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


説教「罪赦された者として生きる」(マタイ18:21-35)
 
今日の第1朗読の創世記の記事は、エジプトに売られたヨセフが、父ヤコブなき後、不安になって遣いを寄こした兄たちを、改めて赦すという記事であります。それも、神がなさったことであり、神は兄たちの行った悪を善に変えられたとして、エジプトでファラオを助ける大臣になったヨセフは、飢饉で頼って来た兄たちを、心から赦し、あなたたちとあなたたちの子供を今後養うと約束しています。限りない赦しという点で今日の福音のテーマとつながっています。
 第2の朗読、ローマ書14章のパウロの言葉も、信仰の弱い人を受け入れなさいと、始まっており、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか、侮るのですかとあり、もう互いに裁き合わないようにしようと言っており、自分のしもべ仲間を赦さない福音書の主イエスの譬えと関連するものとなっています。
 さらに今日の讃美唱、詩編103編1-13節も、主はお前の罪を赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出して下さると歌っています。
 さて、今日の福音は、マタイ18章21節から35節までであります。このところ、今日まで3回にわたって、18章が読まれてきました。18章は、教会内の生活、共同体生活に関わるものであります。
 マタイ福音書は、最初の福音書、マルコの福音書の弟子たちとは、違って、主イエスの教えを正しく理解することのできる弟子たちが描かれています。また、マタイの弟子たちは信仰がない、驚いてばかりいるようなマルコ福音書の弟子たちではなくて、信仰の薄い弟子たち、すなわち、信仰は持っており、ただ、その信仰が小さい弟子たちであります。それで、マタイ18章の始めでも、弟子たちは、イエスのところに来て、天の国では、だれが一番大きな弟子なのかと質問しています。
 主イエスは、天の国では、子供のように心を低くする者が一番偉いし、そのような者にならなければ、天の国には入れないと戒めています。そして、私へと信じる小さい者を躓かさないように、軽んじないようにと、厳しく警告しておられるのであります。
 さて、マタイ18章は教会内での生活、私たち弟子の相互のあり方を扱っています。そこでは、だれも、自分を絶対化することはできないのであります。そして、それはマタイの教会から、2000年経った私たちの教会においても同じことが言えます。
 先週のところでは、罪を犯した兄弟を訓戒し、どうしても聞かない場合には、教会に申し付け、それでも、駄目な場合に、その兄弟を異邦人か、徴税人のようにみなして、教会から除外しなさいとまでありましたが、そこでもだれも、自分を絶対化することは認められていないのです。
 今日の個所、マタイ18章21節から35節は、そのことを、改めて私たちに自覚させ、思い起こさせてくれます。
 ここでも、ペトロが12弟子を代表して質問します。「主よ、兄弟が何度も私へと罪を犯した場合、幾度赦せばよいのでしょうか、7回でしょうか」、と。当時は、三度か、四度、赦せば足りるとラビたちは考えていました。ペトロはそれに対して、7回という完全数を持ち出して尋ねたのですが、主は、「私は7回とは言わない、7の70倍までである」と答えられます。これは、創世記4章の、「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」が背景にあります。神が、レメクの命の保護のためには、無限の復讐をして守ると言われたのに対して、主イエスは、あなたの兄弟の罪をどこまでも限りなく赦すようにと言われます。
 そして、主イエスは、天の国は、以下の王である人の事情に、たとえられると語られました。すなわち、その王は、自分の僕たち、家臣たちと清算を始めたと。それは、王と地方総督か、大地主と相当富裕な農業労働者が考えられていたかもしれません。
 ところが、1万タラントンもの負債が発覚したある家臣、しもべが、連れ出されてきて、主人は、そのしもべに、自分も、妻も子も、財産も売って、返済するように、命じます。家臣・しもべは、「辛抱して下さい、すべて返しますから」とひれ伏しながら、跪いていました。1タラントンは、6000デナリオン、その1万倍ですから、今の日本円にすれば何億円、何兆円にもなります。主人は、そのしもべを見て、腸がうずく思いとなって彼を許し、その借金を帳消しにし、免じてやりました。
ところが、彼は自由の身となって出て行くと、100デナリオン、貸しのあるしもべ仲間に出会い、捕まえ、喉を絞めて、「あなたの借りを返せ」と迫ります。彼は、「待ってくれ、返すから」と言いましたが、その無慈悲な家臣は聞こうとせず、借金を返すまでと、牢に投じます。
 これを見ていたその僕仲間たちは、起こった出来事に心を痛め、あるいは、怒りを覚えてとも訳せる原文ですが、事の一切を主人に明らかにします。
主人は、怒って、彼を呼び出し、お前が願ったので、憐れみ、借金を帳消しにしてやったのではないか、だから、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったかと、言って、借金を返すまでと獄吏、拷問吏に引き渡します。
 そして、主イエスは「あなた方も、めいめいが、心からその兄弟を赦さないなら、私の天の父も同じようになさるだろう」と、弟子たちに警告しているのであります。
 神は、私たちが御前において返すことのできない大きな罪を帳消しにして赦して下さいました。私どもは、それを洗礼において確認し、表明した者であります。しかし、その恵みに生きることを忘れて、兄弟の罪を赦さず、裁くとき、さすがの神も、その恵みを取り消され、私たちが、父なる神との絆に生きるために戻って来るまでと、この苛酷な獄吏に引き渡し、赦されないのであります。
 マタイ福音書のイエスは、天の父が完全であるように、私たちも完全であることを要求され、「私たちに借りのある人を赦したので、私たちの借りをも赦してくださるようにと」祈るよう、教えられ、私たちの義、ふるまいが律法学者の義にまさるものでなければ、天の国に入ることはできないと断言されるのであります。-
私たちが、教会内で、兄弟に対して、天の父によって罪赦された者として、赦しに生きるように願われ、私たちが自分を絶対化してはならないことを教えられるのであります。父なる神から、罪を帳消しにされた者であることを、思い起こし、兄弟をどこまでも赦し、同じ父の赦しの絆の中で生かされる者とされたいと思います。アーメン。


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2014/10/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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