津田沼教会 牧師のメッセージ
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「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)内海望牧師
マタイ20章1-16節、2014年10月12日、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、イザヤ書55章6-9節、フィリピの信徒への手紙1章12-30節、讃美唱27(詩編27編1-9節)
 
マタイによる福音書20章1-16節

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者来た者まで、順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」



説教「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)内海望牧師

 今日の福音書の日課を読んだ人は、一様に戸惑いの表情を浮かべるに違いありません。「わからない」というのが率直な感想でしょう。ある人は「不公平だ」と言って怒り出すかもしれません。私たちの生きて行く根拠が揺さぶられる思いをするに違いありません。朝早くから、まる一日、11時間、暑い中を辛抱して働いた人と、たった1時間しか働かなかった人との報酬が同額だというのは、この世の秩序を乱すものとしか思えません。聖書は、時として私たちを唖然とさせ、真正面から私たち人間の現実をゆさぶって来ることもあるのです。生涯聖書を読み続けた小河国夫さんの遺稿集のタイトルは、「襲いかかる聖書」でした。
 分かるような気がします。
 先ずこのたとえで、主人から声をかけられた人々は皆、その呼びかけに従ったという点は大切です。誰ひとり断らなかったのです。皆、正しいスタートをしたのです。
 加えて、もう一つ注意して頂きたい点があります。それは、この箇所の直前に、ペトロがイエスさまに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるでしょうか。」と質問しています。(19:27)今日のたとえは、ペトロたち、弟子たちに対する答えでもあったのです。
 ペトロが「何もかも捨てて従った」ということは事実でした。4章をみると、イエスさまの呼びかけに対して、ペトロは、「すぐに、(生活の基盤である)網を捨てて、」イエスさまに従ったと書かれています。称賛すべき決断でした。同時に、ペトロは、すべてを捨てても構わないほど救われて天国に入ることを渇望していたと言えましょう。最近、疫病が人間の歴史に大きな影響を与えたということが分かって来ました。古代から、人々はいつも疫病で死ぬことを恐れ、死と隣り合わせに生きていたのです。呪われた死ほど恐ろしいものはなかったのです。どうしても天国に安らぎたいというのは現実的な願い、祈りであったのです。それが、ペトロたちを決断させたのです。しかし、その努力を無意味にするかのようなこのたとえを聞いて、ペトロもあの最初に招かれた労働者と同じような怒りを覚えたことは容易に想像されます。
 最初の労働者の反応は、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているたとえの兄息子の怒りと同じだったでしょう。老いた父親を捨て、放蕩三昧な生活をつづけた挙句、尾羽打ち枯らして帰って来た弟。その弟のために父親が喜びの宴を張ると聞いて、兄は激しく怒り、家に入ろうともしなかったのです。
 私たちも、朝早くから働いている労働者が、「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするのですか」と主人に食って掛かるのも当然のように感じられます。聖書が真正面から、私たちの現実にぶつかって来るというのはこの事実を指します。
 私は、ここでルターを思い浮かべます。ルターもペトロと同じ出発をしました。エルフルト大学法学士という前途洋々たる生の基盤を捨て、父親の烈しい怒りにも逆らって、修道士となりました。彼を駆り立てたのは、何よりも、「救われることの確かさ」を得たいという願い、祈りでした。神さまの裁きを受けて永遠の滅びに決せられるかもしれないという不安、恐怖が、何とか「私は確かに救われた」「天国が与えられた」という証拠を求めさせたのです。ペストが猛威を振るっていた中世ヨーロッパの時代でしたから、ペトロ以上に呪われた死への恐れは深かったでしょう。ルターは、救われるためには、神さまから命ぜられる善い業を行い、それを積み重ねることによって得られると信じて修道院に入ったのです。それほどの決心をしたのですから、修道院でのルターの努力は、それこそ血のにじむようなものでした。しかし、徹夜の祈りも、ざんげも、罪の償いのために課せられた苦行も何の役にも立たないことを思い知らされたのです。罪から逃れられない自分の発見でした。
 それは、常に自己本位、自己中心に傾く自己の発見でした。「祈る時でさえ、自分の利益を考えている自分」の発見です。神さまより自分を大切にする、「自己を神とする」、拭ってもぬぐっても、消すことの出来ない自己絶対化です。罪の深淵を見たとも言えます。「私の罪、私の罪!」と胸をたたき、絶望に陥ってしまったのが修道士ルターでした。パウロの、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」というパウロの絶望の叫びと同じ呻きをルターもあげたのです。(ローマ7章18節以下。)
 しかし、まさにその時、つまり、救いを自分の努力で獲得しようという人間の計画が崩れ落ち、無となった時、ルターは、イエス・キリストの十字架の愛に出会ったのです。死すべき罪人である私に、私の外側から差し伸べられている救いの御手に気づいたのです。「私の力で救いを獲得する」という道に絶望した時、罪人を赦すためにご自分の命を捨てられたイエス・キリストの御手に出会ったのです。ここにおいて、死ではなく、永遠の命への道が開けたのです。ルターは、この喜びを、「戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示した。」と語っています。私たちを戸惑わせ、襲いかかって来るような聖書ではなく、福音の喜びに満ちた聖書が見えたのです。
 これが、最後の者にも憐れみ深く、思いやりに(「気前の良さ」の意味)満ちた手を差し伸べるイエスさまの愛なのです。「最後の者」という言葉には切迫感があります。当時の時間の数え方によると、午後5時は、11時です。12時が終わりの時です。従って、まさに天国の戸が閉まる直前、滅びに陥る直前、と考えることも出来るでしょう。この聖書から取って、英語の熟語では「11番目の時間」は土壇場で」「きわどい時」を意味します。ルターが「戸が開かれた」という時、この最後の者である滅ぶべき罪人である自分も救われた、「間に合ってよかった」というなにものにも変えられない安心感、救いの確かさを味わったことでしょう。
 ルターと、最初の労働者、ペトロ、兄弟子との違いはどこから来るのでしょうか。
 最初の者は、自分の行った業を数え上げ、それを積み上げ、それに対する報酬を求めることに夢中になっていて、真実の自分から目を逸らせていたのです。あるいは、本当の自分自身との出会いを恐れ、神さまからも、そして自分自身にも罪人である自己を隠し、自分の行いで自己を飾り立て、善い業が少ない者を下に見ながら、(軽蔑しながら)生きていたとも言えましょう。私たちの心の奥底にも、確かにこの暗い思いが潜んでいるのを否定できません。
 既に述べたように、最初の労働者も、ペトロも、ルターも主人の呼びかけ大きな犠牲を払って従ったのです。正しく出発をしたのです。しかし、最初の労働者、ペトロには自分たちが、実は、危機的な最後の者であることに気付かなかったのです。先週のたとえで言えば1万タラントン赦してもらったことに気づかなかったのです。いや、その借金にすら気づかなかったでしょう。そして、最後の者より高く払えと口から泡を飛ばして主人に詰め寄る人間になってしまったのです。
 大胆に罪を認め、大胆に悔い改める力が必要です。「大胆に」と言うのは、自分の本当の姿を見たくないのが人間の本性ですから、「私は罪人です。赦して下さい。」と悔い改めるには勇気がいるのです。
 ルターは、「偽者でなく、本物の罪人になりなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。そして本物の恵みを受けなさい!」と手紙で若い同僚のメランヒトンに励ましています。目を逸らさずに大胆に罪人であることを告白する時、本物の恵みが見えて来るのです。これは確かです。これこそ、きわどい所に立った最後の者であると自覚したルターが経験した福音の発見だったのです。
 私たちも、大胆に自分のすべての罪を告白した時、「この最後の者にも憐れみを与えたいのだ」というイエスさまのみ言葉を、今日、私たちに与えられた喜びのニュース、福音として聞くことが出来るでしょう。共に、このみ言葉を大胆に信頼しましょう。たとえ、私たちが、最初の労働者であろうと、ペトロであろうと、兄息子であろうと、今、本物の罪人として、本物の恵みを信じる時、取り成しと、赦しの恵みが与えられるのです。

 ルターはこんなことを言っています。「神さまの本質は、我々から何かを取ることではなく、良きものを与えたもうということである。」、だから「恵みの父なる神は、我々が感謝しなくても驚きたまわない。ますます我々のために尽くし、すべての善を我々になしたもう。たとえ、私たちが現在、どんな罪人であろうとも、私たちに恵みを豊かに与え続けてくれるのが神さまの愛だ」というのです。
 少々、甘えすぎにも思えますが、きわどい時を生きる最後の者として、私たちも、神さまの前に、偽者の罪人でなく、本物の罪人として、正直に立ち、日々大胆に悔い改め、もっと大胆に、日々与えられる赦しの恵みを感謝し、本物の平安を得、喜びと希望に満ちた日々を歩んで行こうではありませんか。


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2014/10/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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