津田沼教会 牧師のメッセージ
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「戒め、赦し、心を合わせる」(マタイ18:15-20)
マタイ18章15-20節、2014年9月28日、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書33章7-9節、ローマの信徒への手紙12章19-13章10節、讃美唱119/4(詩編119編25-32節)
 
マタイによる福音書18章15-20節

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」



説教「戒め、赦し、心を合わせ」(マタイ18:15-20)

今日の第1の朗読のエゼキエル書の記事には、「あなたは悪人に、その道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のために死んでも、私は、その血の責任をあなたに問う」という神の、エゼキエルに対する厳しい命令とも受け止められる言葉が記されています。
悪人が罪から立ち帰るように、預言者は戒める責任を負わされているという点で、今日の福音の記事につながっています。
 次に第2の朗読は、このところ、ローマの信徒への手紙が通読されていますが、パウロは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさいとあり、悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と奨めており、復讐心から、行動するのではなく、愛し合うことから、生活を整えて行くようにと奨めています。
さらに、今日の讃美唱、詩編119編25節から32節のうちの27節には、詩人が神に向かって「あなたの命令に従う道を見分けさせて下さい」と願う言葉があります。
さて、今日の福音はマタイ福音書18章15節から20節の短い個所ですが、マタイ18章は、弟子たちが、だれが、天の国では一番偉いのですかと質問したのに対して、主イエスが教えを、説いたもので、教会内で小さい者、それは劣った者や弱い者を直接には意味しますが、ここでは、主イエスの弟子一般、私たちの仲間一人一人をも指しており、18章全体にわたって、教会生活について述べた講話となっています。
先週の18章1節から14節では、これらの小さい者たちのうちの一人でも、滅びることは、あなた方の天の父のご意志ではないと、終わっており、山にいる、ある意味では教会にいる99匹の羊をおいても、迷い出た1匹の羊を捜しに行く羊飼いに、天の父をたとえています。
また、今日の福音の続き、来週のマタイ18章21節から35節では、ペトロが、兄弟が私へと罪を犯す者を、何回まで赦せばいいのかとのペトロの質問に対して、7の70倍まで、無限に赦しなさいと、教えられ、天の国のたとえとして、1万タラントン、借金のある家来を赦した王である人と、100デナリオン、借りのあった仲間を赦さなかった家来の譬えが、続いて、私たちが神から、この上ない赦しを受けた者であり、その私たちが、仲間に対していかにあるべきかが問われています。
そして、それに対して、その間に置かれた今日の個所は、教会の戒規あるいは、懲戒に関する主イエスの御言葉であります。この中で、先だってのマタイ福音書16章18節と同じく、「教会」という言葉が出て来ます。4つの福音書の中では、この2か所にしか、教会という言葉は出て来ないので、今日の箇所は、生前のイエスが語った言葉でなくて、後の時代になって、主イエスの言葉としてマタイ福音書の編集者によって書き加えられたものではないかという疑問があります。
しかし、主イエスがお生まれになったときに、「この方はインマヌエルの方、神が共におられる方」と呼ばれており、「この子は民を罪から救う」と約束されており、また、マタイ福音書の終わりでも、復活の主が、弟子たちに対し、「私はあなた方と終わりまで、共にいる」と宣言されて、終わっています。
ですから、今日の個所も、少なくとも、復活の主イエスが、弟子たちと共にいて、マタイ福音書の教会で生きるその時代に生きる教会員に対して、今も共におられる方の言葉として自ら保証してくださっている言葉であるということは言えるのであります。
主イエスは、まず、あなたの兄弟が、あなたに対して罪を犯したなら、出て行って、彼と二人だけのところで、「戒めなさい」と、言います。これは、光にさらすとか、明るみに出すとも訳すことができる言葉です。まずは、二人だけのところで、愛をもって、自分に対して罪を犯した兄弟を正しなさいというのです。これは、考えてみますと、私たちにとって一番難しく、勇気を必要とする主イエスの促しの言葉であります。
そして、もし彼が聞き入れたなら、あなたは、彼を獲得したことになる。すなわち、神の国へと、いわば、迷い出ていた兄弟を、教会との交わりへと回復したことになるというのです。
これは、簡単なようで、実際には、私たちにはなかなかできない、罪を私に犯した兄弟への対応のあり方であります。自分のうらみとか、怒りから、そうするのではなく、愛情をもって、兄弟の罪を話し合うことが、このイエスの促しには、前提とされているからです。
さて、もし、それでも、彼が聞き入れられなかったなら、あなたは一人ないし二人を伴いなさい、すべての事柄は、二人ないし3人の証言によって確立されるためであると、第二段としては、申命記などにある裏付けによって、次に取られるべきふるまいが記されています。その過程で、同行した者により、よい知恵が出されたり、罪を犯した兄弟も、考え直して納得することも、起こりうるからであります。
第3に、それでも、聞き入れない場合には、あなたは教会に申し出なさい。しかしそれでも、兄弟が聞き入れなければ、その時には、その兄弟を異邦人あるいは徴税人ででもあるかのように、扱いなさいと言います。すなわち、こうして始めて、教会の交わりの外にある者として、教会員としての交わりを絶つことも認められると、言うのです。
そして、以上の手続きを踏むことが許され、場合によっては、その兄弟の除名まで認められる裏付けとして、教会員の一人一人に向けて、すなわち、教会に向かって、主は以下のように保証され、その根拠を、主は述べられます。
すなわち、はっきり、私は言っておくが、あなた方が地上でつなぐことは、天でもつながれてあり、あなた方が地上で解くことは、天でも解かれてある。私たちが、教会で、禁じたり、赦したりすることが、神のもとでも、同じように認められる。私たちの決定が神の決定でもあると言われるのです。そして、それはまた、教会共同体においては、主イエスへと信じる小さい者が一人も滅びることがないためであります。教会における「小さい者」が躓くようなことを防ぐためであるというようなはっきりとした理由が必要なのです。
そして、更に主は、私たちの決定を保証して、こう言われます。
あなた方のうちの二人が、この地上で「心を合わせる」ならば、これは、シンフォニーという、「音を合わせる」という言葉ですが、二人がすべての問題について同じ思いで願うならば、彼らに、天の父から、それはその通りに実現するだろうと約束されます。
そして、最後に、「なぜならば」、二人ないし三人が、私の名に向かって、集まるところには、私もそこにいるからであると言われ、主イエスが、これらの手続きに従って、罪を犯した兄弟を、正しくいさめることを、教会員である私どもに、委託しておられるのであります。それは、あくまでも、主イエスへと信じる小さい者たちが、教会にあって守られ、教会から離れることなく生かされていくためであります。
私に対して、罪を犯した兄弟を回復し、また、小さい者たちの命が守られるために、私たちは、時に応じて、兄弟をいさめ、その罪を明るみに出す責任もお互いに担っているのであります。
主の体である教会のメンバー、一人一人が、主イエスにとって、何ものにもまして尊い存在であることを、私たちは今一度かみしめたいと思います。

人知では測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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2014/09/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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