津田沼教会 牧師のメッセージ
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「終末に備えて生きる」(マタイ25:1~30)
マタイ25:1-30、2005・11・13、聖霊降臨後第26主日(教会暦の色―緑―)
ホセア11:1-9、Ⅰテサロニケ3:7-13

マライによる福音書25章1節~30節

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付で返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


説教「終末に備えて生きる」(マタイ25:1-30)渡辺賢次牧師

 来週の日曜日(11月20日)で、わたしたちは、一年の教会暦の歩みを終えることになります。この一年の終りの時に、考えるのにふさわしいことは、終末、この世界の終りの日、そして、神のもとでの最後の審判について考えることであります。
 本日はマタイ25:1-30が、福音として与えられています。少し長くテキストを取りましたが、二つの天の国の譬えいずれもが、終末に備えて、準備を怠りなくして日々の生活を歩むことであります。わたしは、そういう生活を願っておりますが、なかなか、体や頭がついていかず、毎週のように、生活が浮き沈みしていることを、感じさせられます。しかし、本日のこの箇所は、私たちに二つの譬えのいずれもが、注意して終りの日に備えて準備し、目覚めて生きていくなら、主は、父なる神とともに、花婿の婚宴の席に招いてくださるという約束であり、そのために、心を神に向けて、準備を怠りなくしていくようにとの主の勧告の言葉であります。
 まず、前半のマタイ25:1-13の箇所であります。10人のおとめが花婿を迎えるために、ランプをともして、ともし火を持って集まるのであります。たいまつであったということも、一説にはありますが、やはり、屋内で使うランプのようなものであったでしょう。
さて、10人のおとめのうちの5人は愚かであり、残りの5人は思慮分別があって、備えのオリーブ油のつぼ、容器を備えていたのであります。しかし、彼女らは待ちくたびれて、うとうとしはじめ、ついには深い眠りに陥ったのであります。5人の愚かなおともたち、半分の人たちとはどういうひとであるのでしょうか。マタイは特に教会に向けて、信者に向けて書かれた福音書であります。この5人も、やはり実際には、キリスト教の信者であろうかと思います。しかし、油の入った容器を持ってこなかったのであります。それは、信仰のことだというふうに、ルターがそう解しているのでありますが、そのように考えることもできるでしょう。あるいは、信仰から生まれるよき行いを伴っていなかった信者たちを表しているかもしれません。さらには、信仰を持たないで生きている、多くの日本の同胞について、そう考えることもできるでしょう。
 パウロは、ローマ書9章で、キリストを救い主として受け入れていないユダヤ人たちが、救いに与かるためには、自分はキリストから切り離されてもいいから、キリストを同胞の何人かにでも伝えたいと願っているといっています。しかし、いずれにしても、信仰のともし火を絶えずともし続け、日ごとに毎日をみ言葉によって養われる必要があるのであります。そうでないと、愚かだった5人のおとめのように主は「あなたがたのことは知らない」といわれ、「その日、その時」まで目を覚まして生きるようにと警告なさっておられます。
さて、後半の譬えの旅に出る主人から5タラントン、託され預かった人は、すぐに出て行き、5タラントンをもうけたのであります。次に2タラントン預かったしもべも2タラントンをさらに得たのであります。しかし1タラントン預かった人は、主が厳しい方でまかないところから刈り取り、箕で自ら穀物をふるいわけないところから集める方だと思って恐ろしくなり、行って、穴を掘り1タラントン、約6000デナリオンを地に隠したのであります。しかし、最初の二人とは違ってそのしもべが進み出て報告すると、予期に反して、主は「不精な悪いしもべだ」といって、外の暗闇に投げ捨てるように、おそらく、天使に命じられるのであります。
それぞれの人が、かけがえのない賜物を神から与えられています。自分はだめな人間だと悲観することは神さまに対して失礼でもあります。それぞれの力に応じて、ふさわしい能力や美徳を与えられている私たちであります。目を覚まして、主の再臨に備えて、なまぬるく生きがちな毎日の生活を、終りの日に向かって備えて生きたいものであります。
父なる神さま。
怠りがちなしもべを憐れんでください。あなたは、十字架を前にして、天の国にあずかり、花婿の婚宴にすべての人を招いておられます。それに励まされ、終りの日に主を喜びをもって見上げることができますように、一人一人を導いてください。キリストによって、アーメン。

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2005/11/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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