津田沼教会 牧師のメッセージ
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「心低く、躓かせず、小さき者と共に」(マタイ18:1-14)
マタイ18章1-14節、2014年9月21日、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書15章15-21節、ローマの信徒への手紙12章9~18節、讃美唱65(詩編65編2~14節)
 
マタイによる福音書18章1節~14節

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」


 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつかずかせるから不幸だ。つかずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つ目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」




説教「心低く、躓かせず、小さき者と共に」(マタイ18:1-14)

今日の第1朗読、エレミヤ書は、エレミヤがイスラエルの民から迫害される中で、神に訴えたとき、神が私に立ち帰り、軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを私の口とするとの神の約束の言葉です。
 今日の教会生活における弟子たち、相互のあり方と、一脈相通ずる御言葉だと思います。
 第2の朗読は、ローマの信徒への手紙の通読が続いていますが、喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさいとのパウロの奨めの言葉があり、また、あなたがたは、できるならば、すべての人と平和に暮らしなさいと言われていて、今日の福音書の主イエスの教会内での弟子のあり方についての奨めとつながるものとなっています。
 讃美唱も、このひと月前あたりから、次週の予告として週報に載せはじめましたが、今日の詩編65編(2節~14節)も、聖なる神殿に恵みが満ち足りるようにと、詩人は讃美の歌を歌っており、特に最後の14節は、牧場は羊の群れに装われ、谷は麦に覆われていますと、神の民の祝福された姿をを喜び歌っており、教会の本来あるべき姿を指し示しているように思います。
 さて、今日の福音、マタイ福音書18:1-14は、新共同訳が訳し分けているように、三段落に、分けることができるでしょう。 
 最初の段落は、子供という言葉が、鍵言葉となって出て来ます。天の国でだれが一番偉いのでしょうかと、主イエスが既に受難予告を、二度もなさった後に、弟子たちが近づいて来てこの問いかけがなされています。今日の出来事のすぐ前には、カファルナウムで神殿税を、あなたたちの先生は納めないのかと問われ、ペトロが治めますと答え、主イエスもペトロに指示を出して、治めさせていたり、中心的な弟子としての役割を果たしているようです。そういう中で、12弟子たちの中でも、自分たちの中でだれが一番偉いのか、とくに天の国で、イエスの目指しておられる場所で、だれが一番なのかとの問いが自然と起こっていたようです。そしてまた、マタイの教会においても、教会の中で、だれが一番偉いのかが問われていた背景があってこのイエスの講話が、ここにまとめられているのです。
 「その時、」主イエスは、一人の子供を、真ん中に立たせて、この子供のようにならなければ、あなた方は天の国へ入ることはできない。この子供のようになる者が、天の国で一番偉いのだと言われました。
昨日、テレビを見ていましたら、ちょうど1か月前の広島の土砂災害の日に危険を脱して生まれた赤ちゃんのかわいい姿と、赤ちゃんを抱くお母さんのインタビューなどが報じられていました。まだ、生まれて一か月のかわいい赤ちゃんですが、子供という存在は、確かに幼稚園児くらいになりますと子供同士では既に残酷な面も出て来ますが、心低い、謙遜な存在であるということは言えるでありましょう。
生まれたばかりの赤ちゃんを見ていましても、すべてを母の手にゆだねて、安心している、心低い存在だと思いました。
 主イエスは、教会においても、そのように自らを低くし、空しくする弟子こそ、より大きい弟子であると言われます。そして、私の名の故に、そのような一人の子供を受け入れる者もまた、心低い謙遜な者であると、18章5節では語っておられます。世の小さな者、見捨てられたような者に奉仕するのは、私にしてくれたことなのだと主イエスは語られるのです。そのような者たちへの約束が第1の段落では語られています。
 続いて、第2の段落は、「躓かせる」、あるいは、「躓き」という言葉が中心となっています。
主イエスへと信じているこれらの小さい者たちのうちの一人をも、躓かせないようにという教会生活の中での弟子たちへの、また、私たち教会員一人ひとりへの戒め、警告の言葉となっています。世においては躓きが避けられないと言われます。迫害や試練などによって、マタイの教会の人々の中には、イエスへの信仰を捨て、棄教する信仰の弱い人たちや入信して間もない人も大勢いたと思います。
しかし、そのような躓きを決して与えることがないように、主は、警告なさり、さらに、そのためには私たち自身が躓いて、信仰の弱い者たちや主イエスを信じたばかりの人たちが、それを見て信仰を失うようなことがないようにと、教えておられます。
 第3の段落は、あなた方は、私へと信じているこられの小さな者たちの一人をも決して見下げないように気をつけなさいと、始まっており、「小さな者」と共に生きるようにという、本日のテキストの言わば要約の奨めの言葉になっています。
 その小さい者たちの天使たちが、いつも、天におられる私の父の顔を仰ぎ見て、彼らのとりなしをしているからであると言われます。
 そして、あなた方はどう思うかと問われ、99匹と1匹の羊の譬えを語られます。ルカとは違って、ここでは、羊の方から迷い出すのですが、羊飼いは、99匹を山において、1匹を追求して、見つけ出すまで捜し回ります。
私たちが、この社会で考える効率主義とか実績主義ではなくて、イエスの天におられる父は、どこまでも、小さい者の価値を、他の何にもまして大事だと考えられ、イエスへと信じるどんな小さな信者もその信仰をなくし、滅びることは私たちの父のご意志ではないと、私たち教会員一人一人に向かって、主は、教会員相互のあり方、信仰の強い者と弱い者とが、互いに支え合っていくことを教えているのであります。
 特に、教会に向かって、マルコの福音書の書かれた頃より一段と成熟した教会に向かって、書かれたと言われるマタイ福音書らしい主の御教えであります。小さき者を一人も失うことがないように、お互いに今日の主イエスの戒めと励ましを心に留めて、歩みたいものです。
 
人知では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。













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2014/09/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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