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津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスとはだれか」(マタイ16:13-20)
マタイ16章13-20節、2014年9月14日、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)、出エジプト記6章2-8節、ローマの信徒への手紙12章1~8節、讃美唱138(詩編138編1~8節)
 
マタイによる福音書16章13節~20節

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


説教「イエスとはだれか」(マタイ16:13-20)

今日の第1朗読、出エジプト記は、モーセが、私は主であるというヤハウェの神の声を何度も聞く場面であり、ここから、モーセは、イスラエルの民をエジプトから贖い出すという使命に遣わされて行きます。この同じ神が、新約では、主イエスの十字架と復活を通して、私たちを罪から贖い出すのです。
 続いて、使徒書の今日の朗読、ローマ書の記事は、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ-なさいというパウロの奨めであり、自分を過大に評価せず、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきですと奨めています。私たち、キリストの体である教会の一人ひとりが、罪から贖われた者として、悔い改めにふさわしい生き方をするようにと説いています。
 讃美唱、詩編138編も、詩人は神にほめ歌を歌い、あなたは呼び求める私に答え、魂に力を与え、解き放って下さいましたと感謝をささげ、あるいは、苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、私に命を得させて下さいと願い求める歌となっています。
 さて、今日の福音、マタイ福音書16:13-20は、4:12から始まったガリラヤ宣教以来ずっと問われて来た「イエスとはだれか」の問いが明らかにされるマタイによる福音書前半のいわば頂点と言える記事となっています。
 これまでも、主イエスをダビデの子と呼んで近づいて来たカナンの女のエピソードが、先週も出て来ましたし、窮状に追い込まれていた波と逆風に苦しむ舟の中の者たちが、ガリラヤの湖の上を歩き回り、同じように最初は水上を歩けたペトロと共に舟に上がると、風がやんだのを見て驚き、あなたこそ神の子ですと、ひれ伏し拝むといった出来事は何度かありました。
 そして、私たちも、「イエスとはだれか」という問いを持ちながら、主イエスのみ業とそのお言葉を聞かされて来たのですが、今日、それに対する決定的な答えが、フィリポ・カイザリアの風光明美な落ち着いた場所で、12弟子たちによって、なされるのです。
 今日の前の個所では、ファリサイ派や律法学者たちが、主イエスの教えを理解せず、時のしるしを見分けられず、主イエスによって新しい救いの時代が始まっていることを、認められないでいる出来事が記され、弟子たちに、ファリサイ派どもの教えに気をつけるように諭しています。
 そして、マルコでは、今日のペトロの信仰告白の前に、盲人の目に唾をつけ、盲人をいやす奇跡が記されていますが、マタイはこれを省いています。マタイにとっては、一見、魔術的とも解される奇跡をなさる主イエスは、この場面ではふさわしくないと考えたのでしょう。
 さて、そのガリラヤの地から退かれた、ヘルモン山の麓、泉の湧き出る静かな地域で、改めて、主イエスは弟子たちに質問されます。人間どもは、人の子のことを、誰だと言っているかと。彼らは答えます。ある者たちは、洗礼者ヨハネだと、あるいは、エリヤだとか、エレミヤだとか、かの預言者たちのうちの一人だとか言っていますと。この時代、人々は、終末の時代が近づいているという信仰が強くなっていました。そして、メシアが来る前に、生きたまま天に上げられたエリヤや、エリヤの再来と考えられた洗礼者ヨハネ、イエスと重なる苦難の預言者であったエレミヤや、終末前に先駆者、前触れとして期待されていた預言者の一人として、人々は、主イエスを認めていたのです。
 それに対して、主イエスは、今度は弟子たちに、初めて、直接、ではあなた方は、私を誰だというのかと、ここで質問なさったのです。
 ここでも、シモン・ペトロが、登場して、答えます。「あなたこそは、かのメシア、生ける神の子です」と。偶像の神ではなく、被造物に命を与え、今も生きて働かれておられるる神の、その息子です」と、主の真っ向からの質問に、あのペトロらしく、真っ直ぐに堅実に答えることができたのです。
 主は、喜ばれました。ここからの、主イエスの言葉は、マタイだけが記しているものであり、大きくその真正性や、論争が古来起こって来たみ言葉であります。
 主は、言われます。バルヨナ・シモン、あなたは、幸いだ、あなたにこのことを、啓示させたのは、肉と血、すなわち、はかなく脆い人間性ではなく、天におられる私の父なのだ。
 私も、あなたに言おう、すなたち、あなたは、ペトロである。その岩、ペトラの上に私の教会を建てよう。陰府の門も、それ、教会を打ち負かさないだろうと。
 この教会、エクレシアという言葉は、18:18とここと、福音書の中では、2ケ所しか出て来ません。それで、これは、後になって、付け加えられたもので、主イエスは、こんな言葉は言えなかったのではないかと、疑われたのです。
 旧約聖書では、神の民、主の会衆といった言葉や、思想がありました。主イエスが生前に、御自分の教会を、ペトロ、石という意味ですが、その岩のうえに、建てようとおっしゃることができたのだろうか、昔から疑問がつきまとってきたのです。
 しかし、主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちのシナゴーグの会衆ではなく、メシアとして、御自分の救いの共同体を、ペトロという弟子を通して、また、その信仰の上に、それを土台として建てようと約束なさったのです。
 ローマ・カトリック教会は、この主イエスの言葉をもとに、自分たちは、ペトロを正統に初代教皇として、教皇がその使徒権を承継しているとずっと主張して来ています。しかし、それは、何世紀かたってから3、4世紀頃から主張され出したものでした。
 ペトロは、マタイ福音書では特に傑出した、特別の弟子であります。彼は、主を、受難の時に三度も否認したりする弱さもその後もずっと持っていますが、12弟子の中では、特にこのマタイでは際立った存在です。
 そして、そのペトロは、使徒言行録10、11章までは、異邦人に、百人隊長コルネリウスに最初に主イエスのメシアの共同体の救いを告げ知らせる使徒としての重要な働きを示すことになるのです。その後は、御承知のとおり、パウロが異邦人宣教の柱となります。
 さて、更に続けて、ペトロに言われます。あなたに、私は天の国の鍵を与えよう、あなたが、地上でつなぐものは、天でもつながれてあるだろう。あなたが、地上で解く者は、天でも解かれてあるだろうと。
 ファリサイ派の人々は、律法に関する知識の鍵を閉ざして、人々が天に入るのも、妨げていました。しかし、主イエスは、ペトロに、教えたり、懲戒したりする権威をお与えになりました。
 マタイ18:18では、あなた方が、地上でつなぐものは、天でもつながれてあり、あなた方が地上で解くものは、天上でも解かれてあるだろうと、言われており、ヨハネ20:23では、だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残ると、同じような言葉が弟子たちに対して言われています。
マタイ福音書のここでは、ペトロに天国への鍵が、すなわち聖霊によって、教えたり、懲戒したりする権威が、教会に与えられているのです。
 そして、教会は、教えとしての権威と懲戒権を担って、説教と聖礼典を通して、世に対して、救いと命を伝える重大な使命を与えられているのです。
 そして、そのメンバーである私たち一人一人も、人間としては、ペトロと同じように欠けを持った弱い土の器ではありますが、主イエスによって、主の教会を建てる生きた石の一つとして用いられるのです。
 主は、ペトロの上に私の教会を建てると言われました。そして、陰府の門、地下の死の力、悪の力、サタンの力も、これに打ち勝つことはないと約束されました。
 もはや、死は勝利に呑み込まれているのです。私たちは、ペトロにゆだねられた権威を、メシアの共同体、救いの共同体の一員として、それを共どもに、担う者とされているのです。
主は、そのとき、御自分がメシアであることを誰にも言わないように、命じられました。それは、主イエスが、十字架につく苦しむメシアであることを、弟子たちは、この後、学ばねばならなかったからであります。イエスとはだれか、これは、私たちがそれぞれに与えられている十字架を負いながら、生涯をかけて、問い続けねばならない問いです。しかし、このお方によってこそ、私たちは、教会のうちにあって、陰府の力、死と悪の力から、解き放たれて、魂の真の平安のうちに歩むことができるのです。

人知では、到底、測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



 






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2014/09/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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