津田沼教会 牧師のメッセージ
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「この私にも恵みのパン屑を!」(マタイ15:21-28)
マタイ15:21-28、2014年9月7日、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―聖餐式)、イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11章25~36節、讃美唱67(詩編67編2~8節)
 
マタイによる福音書15章21節~28節

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


説教「この私にも恵みのパン屑を!」(マタイ15:21-28)

今日の第1朗読のイザヤ書は、「私の家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」と異邦人にも救いが及ぶ日が来ることを預言しています。
 第2の朗読のローマの信徒への手紙も、イスラエル人が、あなた方のために神に敵対しているが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されているとパウロは述べています。
 週報の次週の予告に載せています讃美唱も、今日のところは、詩編67:2-8となっていて、すべての民があなたに感謝をささげますようにという歌になっています。
 さて、今日は、マタイ15:21-28が福音として与えられています。マタイの福音書の主だった出来事や、主のなさった天の国のたとえなどが、このところ、章を追って読み進められています。
先週の湖の上を歩くイエスとペトロの出来事の後に、今日の福音が与えられています。先週の福音と今日の福音の間には、食物規定の汚れに関することや、人間を汚すものが、人間の内側から起こることなどを、主イエスは教えておられます。ユダヤ人と異邦人の関係の問題があることを予告しているかのようです。
 さて、湖の上での奇跡あと、辿り着いたそのゲネサレトの地から、あるいは、本拠地とされていたカファルナウム辺りから、主イエスは、そこを出て、ティルスとシドンの地域へとやって来ます。あるいは、そこへと、主イエスは引っ込まれた、退かれたとも訳せます。
 今日の記事も、マルコ7:24-30に、マタイは依拠して書いているのですが、マタイらしく非常に整えられた文体で書かれており、それを聞いたマタイの教会の人たちは、一度聞けば忘れないような鮮明な印象を受けたことでしょう。
 マタイは、始めから、終わりまで、すぐ対話形式でこの出来事を記し始めます。見よ、カナンの女の人が、その地方から出て来て、イエスにこう語りながら叫んだ。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。私の娘が、ひどく悪霊にとりつかれています」と。
 ところが、主は、言葉をひとことも返されません。いつもの主とは違っています。
弟子たちが、たまりかねて、近づいて来て、彼女を追い払って下さい、あとから、叫び続けていますからと、言います。
 この弟子たちとは、マタイの教会のユダヤ人キリスト者たちが、異邦人に対して抱いていた感情を現わしていたでしょう。
 マルコでは、ティロス・フェニキアの生まれのギリシャ人となっていますが、マタイではカナンの女となっていて、イスラエル人たちの定住する前の先住民たちを思い起こされます。また、アウグスチヌスの時代にも、フェニキアから移って来ていたカルタゴの農民たちは、自分たちをカナン人と名乗っていたとの記録もあります。いずれにしても、ユダヤ人たちから見て、この女性は異教の民でありました。しかし、彼女は、主イエスをイスラエルのメシアであることを認めた呼び方で呼んでいます。
 マタイの教会のユダヤ人キリスト者の弟子たちは、異邦人に対してなお、偏見をもって見ていたのでしょう。
 イエスは、何も言葉を答えられないのですが、この女性は、なおも、ついて来ます。主イエスは、私はイスラエルの家の失われた羊ども以外には遣わされていない、とお答えになります。これは、御自分に向かって言われた言葉とも考えられます。女の人は、主よ、私を助けて下さい、と今度はひれ伏し懇願します。
 それに対しても、主は、子供たちのパンを取って、小犬に投げてやるのは良くないと自問自答するように、答えられます。そのとき、この女性は、そうです、主よ、そして、思いますに、小犬たちも、その主人たちの食卓から落ちるパン屑は食べるのですと答えたのです。
異邦人である自分が、救いの順番、席次としては、イスラエル人たちに及ばないことを、彼女は認めたうえで、しかし、自分もまた、その救い、恵みを受けることができるとの堅忍不抜の信頼をもって、主イエスに訴えたのです。
 それを見て、主は、御婦人よ、あなたの信仰は大きいなあ、あなたの欲するとおりになるようにと、ついに、この女性の懇願に応えたのです。その時から、彼女の娘は癒されます。その病気が癒されたのは、信仰の奇跡に対する報いのようなものです。
 主イエスの生前の間は、このような例外的な場合、あの百人隊長の信仰の場合をのぞけば、その宣教は、もっぱら神の民イスラエルの家の失われた羊たちであるユダヤ人たちに対するものでありました。そして、主イエスの復活後に、弟子たちは始めてすべての民を弟子とするように、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けるようにと、委託されて異邦人宣教へと派遣されていくのです。
 戦後の日本の神学者に、滝沢克己という人がいます。彼は、バルトから信頼され、後に洗礼も受けますが、キリストのみ名によらなくても、インマヌエルの神を信じることは可能であるというような立場を表明しています。
 今日のカナンのこの女の人は、主よ、ダビデの子よ、憐れんで下さいとは、言っていますが、主が十字架と復活を経てメシアとなることは知らなかったでしょう。しかし、イスラエルをまず救い、そして、異邦人たちをも、その恵みに招き入れる神を、堅実にどこまでも信頼するその信仰によって、救われたのです。
 私たちも、この女性と同じように、その堅実な、忍耐強く諦めない信仰を与えられたいと思います。今日は、幸いに、この後、聖餐式がありますが、今日の女性を思い起こしつつ、恵みのパン屑、しかし、ユダヤ人キリスト者たちとまったく同じ豊かな、満ち足りる主イエスの体と血に共に招かれたいと思います。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9月生まれの兄弟姉妹のために祈ります。
恵み深い天の父なる神さま。
秋がようやく訪れようとしています。この実り豊かな秋の訪れの月に、この地上に生を受けた兄弟姉妹の上に、あなたの豊かな祝福がありますように。
生涯が、御言葉の光によって、導かれ、希望と平安のうちに歩ませて下さい。それぞれが、キリストの体である教会の枝として、聖礼典によって、信仰が強められ、信徒の交わりのうちに、それぞれが残された人生を、充実して過ごさせて下さい。そのご家庭をも顧みて下さい。新しい日々をあなたにゆだねつつ、お一人お一人がその使命を果たすことができるように守って下さい。
      キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2014/09/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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