津田沼教会 牧師のメッセージ
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「疑いに沈むのを助け出す主のみ手」(マタイ14:22-33)
マタイ14:22-33、2014年8月31日、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)、列王記19:1-21、ローマの信徒への手紙11章13~24節、讃美唱130/1(詩編130編1~6節)
 
マタイによる福音書14章22節~33節

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教「疑いに沈むのを助け出す主のみ手」(マタイ14:22-33)

 今日の日課、旧約聖書の朗読は、列王記上の19章全体が与えられていました。エリヤがホレブ山、シナイ山に向かい、静かな、神のささやく声を聞いて、元気を出し、イスラエルに戻って来て、エリシャを弟子、あるいは跡継ぎに選ぶという記事です。今日の主イエスが山に祈りに登り、湖上を歩く出来事と弟子ペトロの水上歩行との対比があると思います。
第二の朗読は、ローマ書11:13-24で、こちらの方は、通読していますから、福音の記事とぴったりは合わないですけれども、異邦人に救いが宣べ伝えられるけれども、あなた方は、接ぎ木された枝であるから、根であるユダヤ人に対して誇ってはならないというパウロの言葉でした。
讃美唱は、詩編130/1、130:1-6ですが、深い淵の底から、あなたを呼びますで始まり、福音の記事の、沈みかけたペトロの「主よ、助けて下さい」に通じるものだと思います。是非、皆さんも、次週の聖書個所と共に、週報に載せ始めましたので、讃美唱まで、事前に読んで来ていただきたいと思います。
 さて、今日の福音、マタイ福音書14:22-33は、先週の出来事、5000人への供食の奇跡物語に続く奇跡物語、あるいは、主の顕現物語です。
 広島市近くの土砂災害が報じられていますが、現代の日本でも大きな犠牲をもたらす大水の脅威を、私たちは改めて思い起こされます。
 さて、今日の福音は、そして、すぐに、イエスは、弟子たちを、強いて舟に乗せ、向こう岸に、先に進ませ、ご自分は群衆どもを解散させ、その後、一人で祈るために山へ上られたと始まっています。
 洗礼者ヨハネの死を知らされ、ご自分の今後の十字架へ向かっての道行きを天の父と向かい合って確かめ合い、交流して過ごした夕方以降であったでしょう。あるいは、弟子たちに御自分がだれであるかを、教えるための祈りの時でもあったかもしれません。
 弟子たちの舟は、既に何スタディオンも、ガリラヤ湖に出ていましたが、波に悩まされていました。マタイは、それは逆風であったからだと、記しています。この舟は、教会をも、表わしており、マタイの教会の人々は、ファリサイ派などの迫害に苦しむ自分たちを、この舟に重ね合わせて思い起こしたでありましょう。
 夜間の第4時、午前3時から6時の夜明け前のときに、主イエスは、海の上を歩き回って、舟の方へとやって来ます。水上歩行、海上歩行は、人間には不可能なことであり、神のみが可能なことだと聖書では考えられていました。そして、海やガリラヤ湖の大水は、邪悪の住まう所、また死と恐怖、病気、不安、得体の知れないものを、彼らにとっては意味していました。逆風に苦しんでいる弟子たちの所へ、海の波を砕くようにして、主イエスは、歩き回り、やって来られるのです。
 ところが、それを見た弟子たちは、うろたえ、恐れから「幻影だ」と言って叫び声をあげます。
 主は、「勇気を出せ、私、私である、恐れるな」と弟子たちを鼓舞するのであります。
 そのとき、ペトロが、主よ、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてあなたに向かってやって来るように、招いて下さいと申し出ます。ヨハネ福音書の21章、終わりの章で主の復活を、ガリラヤ湖で知らされたとき、ペトロが水海に飛び込んだ出来事を思い起こされます。
 ペトロは、弟子たちの代表であり、熱心さで際立った弟子でもあり、このあと、16章16節では、あなたは、生ける神の子メシアですと信仰告白し、主から、あなたの岩の上に教会を立てるとも言われる弟子であります。
 しかし、この12弟子の代表者ペトロは主の受難の時には、大祭司カヤファの屋敷にまで、何とか入って行きますが、女中から誰何されると、主イエスを三度も知らないと言ってしまう弱い弟子でもあります。
 そのペトロが、イエスの言葉、「やって来なさい」との招きに応じて、舟から降りて、イエスに向かって、まっすぐに水の上を歩くことができたのです。
 ところが、強い風を見て、大波の中へと沈み始めます。そして、ただひとえに、「主よ、助けて下さい」と声を発します。主は、すぐに手を差し伸べ、彼をつかんで言います。「なぜ、疑ったのか、何へと疑ったのか、信仰の薄い者よ」と戒められました。
この疑うという言葉は、心が二つの方向に分かれてしまうことを示す言葉です。私たちは、主イエスを救い主と信じる信仰と、それとは、正反対にそのすべてのものの上への主の主権を疑う心と二つの心の間で、右往左往しているのが現実である存在です。
そして、主は、私たちを「信仰の薄い者よ」と呼ばれます。しかし、「不信仰な者よ」とは主はおっしゃらないのです。私たちの信仰は、小さい信仰、からし種のような信仰、殆どないような信仰です。
しかし、主イエスに対する信仰に疑いが生じ、強い風に目を取られて、波間に沈みそうなときにも、私たちは、「主よ、助けて下さい」と願うことが許されている存在です。
 二人が舟に上がると、逆風だった風もやみます。舟の中にいた者たちは、「あなたは、まことに神の子です」と言いつつ、ひれ伏し拝んだのであります。
 マルコの福音書では、「弟子たちは、驚いた。パンの出来事を忘れ、心が鈍くなっていたからである」と、弟子たちの無理解が、記されていますが、マタイの描く弟子たちは、イエスが、だれであるかを、十分とは言えなくても、次第、次第にでも悟っていく弟子たちであります。
 マタイ福音書の最後の章で、復活の主に出会った弟子たちは、一方では疑う弟子たちでもありました。
しかし、主イエスの方は、そのような弟子たちと世の終わりまで共にいると約束されるお方なのです。大波の荒れ狂い、逆風の激しい時、幻影によって惑わされず、死や病気や、暗闇、不安、疑い、葛藤の中にあって、主イエスは、そのような大波を静め、その上を歩き回り、「わたし、わたしである、勇気を出せ、恐れるな」と沈みかかる私たちをその手で握り締め、助け出して下さるのです。私たちの津田沼教会という舟が、この世の荒波の中にあって、また、私たち一人一人がそれぞれ、この世の中で、毎日の生活の中で主イエスの弟子として、日毎に果敢に挑戦していくことを、主イエスは共にいて今も望んでおられるのです。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




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2014/08/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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