津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の恵み豊かな食卓」(マタイ14:13-21)内海望牧師
マタイ14:13-21、2014年8月24日、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)、イザヤ書55章1節~5節、ローマの信徒への手紙9章1~5節、讃美唱104(詩編104編24~35節)
 
マタイによる福音書14章13節~21節

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


説教「主の恵み豊かな食卓」(マタイ14:13-21)内海望牧師

 今日の日課は、非常に重苦しい雰囲気で始まります。何故なら、直前に領主ヘロデの結婚の件で忠告したため獄にとらわれていた洗礼者ヨハネが、むごたらしく殺されるという出来事が記されているからです。しかも、それは宴会の即興の形でのおぞましい殺人でした。
 イエスさまは、この報告をお聞きになり、悲しみのうちに人里離れた所にひとり退かれた、と聖書は報告しています。おそらく祈っておられたのでしょう。この世界の闇の深さを悲しむと共に、ご自分がこれから歩もうとする十字架への道も心にかかっていたと思われます。
 そのように考えると、確かに、今日の出来事は、わたしたちに「最後の晩餐」を思い出させます。

 「ひとり人里離れた所」で祈っていらっしゃったイエスさまですが、群衆は決してイエスさまから離れようとはしませんでした。彼らは、「方々の町から歩いて後を追った」と聖書は報告します。「歩いて」という言葉は、群衆の切実な思いを感じさせます。イエスさまは、埃にまみれた足をひきずりながら、病人を支え、必死で歩んでいる群衆をご覧になっ て、深く憐れまれました。「深く憐れみ」という言葉は、9章36節(17頁)の言葉と同じです。以前にも申し上げましたが、この「憐れみ」と訳された言葉は、「はらわたがよじれるような痛み」という意味です。まさに「断腸の思い」を表わす言葉です。群衆が、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれた」状態であったのです。それを見て、イエスさまは、深く憐れまれたのです。
 それにしても、群衆をして、このように、「前へ。一歩でも前へ。決して留まるな。」と歩き続けさせた情熱の根源は何だったのでしょうか。
 ヨーロッパ中世紀は、巡礼の旅が盛んでした。エルサレム巡礼、ローマ巡礼に優るとも劣らない巡礼にサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼があります。パリから出発して、ヨーロッパの最果て、スペインの西南端にある聖ヤコブ教会へと歩み続ける巡礼の旅です。堀田善衛によると、この往復3000キロにもわたる厳しい巡礼の旅に、ヨーロッパ各地から、インド、エティオピアからまで人々が参加し、パリからピレネー山脈を越え、歩み続けたのです。その数は年間80万人から100万人を超える人数であったと言われます。
 これにまつわるいろいろな噂、俗説があります。たとえば、これはレ・コンキスタの一端であったとか、借金取りからの逃亡であったとか等々。しかし、「それにしても、」と堀田善衛は言います。高齢者の巡礼途中での死亡率が60%にも上る旅に、これほどの人々を赴かせる情熱の根源には何があったのだろうか、と問うのです。
 それは、「救い」を求めての旅でした。「救い」の最大のものは、「罪の赦し」でした。あの「免罪符」と同じ力を持つのが、この巡礼でした。また、多くの障がい者、病人などが参加したことが明らかなことから、「癒し」という「救い」を求めて歩き続けた人々も数多くありました。
 今日の日課を読んでいて、この巡礼の旅を思い出しました。今、夕暮近くなるのも忘れて、ひたすらイエスさまを追いかけて歩み続ける群衆の姿に、私たちは、飢え渇くように、救いを求めて歩む人々の姿を見出します。
 「飼い主のいない羊」、つまり、仏教の言う「生・老・病・死」4つの苦しみ、生きる苦しみ、老いの不安、病いの苦しみ、死の恐れ、苦しみに取り囲まれながら、寄る辺を持たず、どこへ向かって歩んでいいのか分からず、不安と恐れの中で生きている人々の姿です。
 そのように考えると、今日の聖書の箇所は、現在のこととして私たちの前に現れて来るのではないでしょうか。
 イエスさまの時代も、中世紀も、そして今日でも、人間の心は同じです。「生老病死」への恐れと不安は人間を苦しめます。現代社会には、カウンセリング、健康食品など、様々な苦しみを癒す手段は溢れていますが、私たちは、心の底では、それらと違った本当の救いを求めているのではないでしょうか。「心の渇き」があるのです。「祈り」と言ってもよいでしょう。「心理療法の根本は祈りではないかとおもうことがある」と心理療法家自身が言っています(河合隼雄)。
 イエスさまは、私たちのすべての「渇き」を思いやることの出来る方でした。イエスさまご自身、私たち人間が経験する不安、痛み、苦しみすべてを経験された方なのです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を救う力のある方に、祈りと願いをささげ」と「ヘブライ人への手紙のゲッセマネ」と呼ばれる5章7節(406頁)は報告しています。ですから、罪は犯されませんでしたが、罪と死の恐ろしさを思いやることが出来る方です。この箇所でも、イエスさまが、群衆に対して先ずなさったことは病人を癒すことでした(14節)。「肉体より心の健康が大切だ」など理屈はおっしゃらずに、そこに「渇き」があるなら、そこに真っ直ぐに近づき、一杯の水を与えて下さる方なのです。
 イエスさまがここで何をなさったかは書いてありませんが、当然、神の国の福音を説教されたことでしょう。寄る辺を持たず、死と罪への恐れと不安に生きている人々に、どこに向かって生きればよいか示されたのです。良い羊飼いとして、人生に方向性を与えて下さったのです。群衆は、時のたつのも忘れて一心に聞き入っていました。あっという間に夕暮れになりました。
 弟子たちは、イエスさまの説教を聞くよりも、また群衆の空腹のことよりも、自分たちの食べ物の心配をしていました。それが、15節の弟子たちの言葉によく表れています。群衆のことを心配しているように見えますが、決してそうではありません。
 弟子たちの提案に対するイエスさまの、「行かせることはない」というみ言葉は、弟子たちに対する厳しい戒めです。「群衆が空腹だと同情するなら、手を貸してやりなさい。」とおっしゃるのです。「友人は忠告は山のように玄関においていくが、誰も手を貸してくれない」という格言がありますが、弟子たちの態度はまさにそのような姿でした。
 イエスさまは「飢え」の苦しみも経験された方です。その苦しみも分かっていらっしゃる方なのです。ですから、「われらの日毎の糧を今日も与えたまえ。」と祈れと命じて下さる方です。
 イエスさまの命令に対する弟子たちの答えは典型的でした。「パン五つと魚二匹しかありません。」「しかありません」という言葉を、私たちは免罪符のように使います。そして、結局は、今、目の前にいる苦しむ人を見過ごしにするのです。確かに、「隣人にかかわる」というのは厄介なことです。そもそも隣人そのものが厄介な存在です。自分が隣人として選んだのでもないし、縁もゆかりもない他人です。適当に付き合うぐらいがせいぜいです。
 しかし、イエスさまは縁もゆかりもない群衆の隣人になって下さったのです。賓客として食卓に招いて下さったのです。このように、イエスさまは私たちがどのような人間であっても、私たちを賓客として招いて下さる方なのです。「すべての人が食べて満腹した」とあります。これは、単に空腹が満たされたということでなく、自分たちを賓客として招いて下さったイエスさまの愛の豊かさを感じた「満腹」であったことでしょう。この、出来事は単なる奇跡物語ではありません。イエスさまが、群衆の隣人となり、寄り添って下さったことがポイントではないでしょうか。
 更に、18節後半に、「取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」という言葉に注意してください。これは、聖餐式の式文そのものです。イエスさまは、ここでご自分の体と血を与えて私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さったのです。
 初めに、今日の聖書の箇所はイエスさまの受難と、最後の晩餐を思い出させると申し上げました。イエスさまは、いざという時イエスさまを「知らない」と言ったペトロ、イエスさま逮捕の手引きをしたユダを含む12弟子全員と最後の晩餐の食事をなさった方です。裏切りと、ご自分の死を知りながら、最後まで弟子たちを愛し続け、罪の赦しと、死への勝利を与えて下さった方なのです。
 今日の出来事は、単に5000人の群衆が満腹したということではなく、恵みに恵みが加えられた、豊かな「愛の食卓」「救いの食卓」が供えられたという出来事であったのです。
 そして、何よりも嬉しいことに、イエスさまは今も私たちを、深い憐れみの思いをもって、この恵みの食卓に招いて下さっているのです。主の食卓に馳せ参じ、新しい命に生きる喜びを分かち合いましょう。
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2014/08/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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