津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「より分けられる天の国」(マタイ13:44-52)
マタイ13:44-52、2014年8月17日、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)、列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39、讃美唱119/10(詩編119:121-128)
 
マタイによる福音書13:44-52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」





説教「より分けられる天の国」(マタイ13:44-52)

今日の第1の朗読は、列王記上のソロモンの知恵と言われる部分でした。この僕に、民を正しく裁くために聞き分ける心をお与えくださいと夢の中で祈ったのです。それは、今日の福音書の天の国のことを学んだ学者の姿にもつながるものでしょう。
また、第2の朗読は、私たちはこのところ、ロマ書を通読していますが、今日の部分はどんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないというパウロの言葉でした。これも天の国、神の支配を知った者の一途な生き方という点で、今日の福音書にふさわしいみ言葉ではないでしょうか。
最近、お気づきの方は、週報の次週の予告に、讃美唱を載せているのに気付かれたことでしょう。これも、教会手帳には載っていますので、気づかれた方もいるでしょうが、今日は、詩編119編の121-128で、私は、金にまさり、純金にまさって、あなたの戒めを愛しますといった詩人の心の底からの叫びが記されています。
さて、今日の福音書は、先週の個所に続くものです。マタイ福音書13章は、主イエスが譬えを用いて説教された記事がまとめられています。そして、聞き手が変化していきます。
初めは、主イエスは、群衆に語りかけられています。そして、先週の個所であった毒麦の譬え、からし種の譬え、パン種の譬えは、新共同訳聖書では訳されていませんが、いずれも「彼らに」譬えを話されたとなっています。
そして、今日の部分は、弟子たちが、家に入って、毒麦の譬えについての説明を聞いた後に続いていますから、弟子たちに向けて書かれていることになります。群衆も、聞くべき耳をもって聞く者は、主イエスの弟子となることができるし、天の国の奥義、秘密を知ることができることを、マタイは読者に示しているのです。
さて、今日の個所で、主イエスは、まず、こう言われました。天の国は、以下の事情に似ている。宝が畑に隠されている、それをある人が見つけた後、喜んで出て行った、そして、自分の持ち物を、全部売り払って、その畑を買うのであると。
この人は、たまたま、期せずして、思わぬ宝を畑の中で見つけ、それをそのままにして、出て行き、自分の持てる限りの財産を犠牲にして、畑を買い、もちろん、その中にあった宝を手中におさめたというのです。これは、不道徳なことでしょうか、あるいは、当時の社会にあって、法律違反であったのでしょうか、それには、触れていません。しかし、主イエスは、天の国、神の支配に与るとは、この人の場合に似ていると言われます。主イエスは、私のためにその命を失う者は、それを得、自分の命を求める者はそれを失うと言われました。
また、天の国は、高価な真珠どもを捜し求めている真珠商人の事情に似ていると言われました。彼は、特別に高価な1個の真珠を見出すと、出て行き、自分の持っているものをすべて売った、そしてそれを買ったのであると。この場合は、彼は、最初から熱心に捜し求めている点が、少し違いますし、真珠の卸売商人で第1の場合よりも裕福であったかもしれませんが、それでも、自分の持ち物を全部売ってまでして、その特別の真珠を買っているのであり、それを得るためには、必死の努力をしている点では同じと言えます。天の国に与るとは、そのように、私たちが全人格をもって臨まねばならないことを、教えています。
第3に、主イエスは、天の国は、引き網、底引き網、あるいは地引き網の次の事情に似ていると言われます。すなわちそれは、海へと投じられ、すべての種類から集めた。そして、それが満ちると、人々は岸へと引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは外へ、彼らは投じたというのです。
そして、主は続け、世の終わりにもそのようになるだろう、天使たちがやって来て、正しいものたちの真っただ中から、悪い者たちを、より分け、火のかまどへと投げ込むだろう、そして、そこには、泣く声や歯ぎしりする音があるだろうと、言われるのです。
天の国は、このように、あらゆる種類の者たちがその網に集められ、満ちると、引き上げられるのにたとえられます。神の支配というのは、本来、人間の努力によって、獲得されるものではなく、神の側からやって来て、実現していくものです。
私たちは、今は、投げられた網に何が掛っているかを問わず、漁師たちのように引き寄せることに励むことが求められているのです。終わりのときには、天使たちが来て、正しい者たちの真ん中から、悪い者たちをえり分け、火の炉へと投じると主イエスは、ここでも約束なさっているのです。
そして、主は、弟子たちにあなた方は、これらのことがすべて分かったかと聞かれますと、彼らは「はい」と言いました。すると、主は、天の国でもって弟子とされた学者は、一家の主人に似ている、すなわち、彼は新しいものどもと、古いものどもとを、彼の倉から投げ出すのであると、言われたのです。
多くの注解書は、この学者とは、たとえば、マタイ福音書の記者マタイ自身のような一部の、教会の中で教える教師、いわば教会の律法学者に限ると言っています。
しかし、マタイ13章が示しているように、マタイの譬えを聞いている群衆は、弟子へと変えられる可能性を持っています。
天の国に対して弟子とされた学者とは、天の国の譬えを聞いて理解する私たち、弟子たち一人一人と言えるのではないでしょうか。
天の国のことを学んだ私たちは、主イエスの新しい教えと、旧約の律法、預言者などを自在にこなすことができると、主イエスは私たちを励まし、神の支配のうちに、主イエスの弟子として歩むように、すべての人たちを招いておられるのです。
世の終わりに、正しい者と悪い者とをより分けられるとの主の約束に信頼して、私たちはすべての人を教会に招く業にいそしみたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。




スポンサーサイト
2014/08/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。