津田沼教会 牧師のメッセージ
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証言「神様の御計画」(飯村 憲兄)
2014年8月10日
証 「神様のご計画」 飯村 憲

1. 初めに
 本日は信徒礼拝ということになり、教会員から証をすることになり、私が行うことになりました。皆さんの前で証をするのは2回目で、最初は松原先生が牧師をされていた中山教会で行ったことを覚えています。本日は自己紹介も兼ねて、私の歩んできた人生の一部についてお話したいと思います。証の時間は25分と聞いておりますが、ワープロで原稿を作ったところ、私の原稿は大体7700文字でした。一般的には一分間に300~350文字位で原稿が読めるみたいです。単純に計算すると20~25分位です。

2. 幼少期
 私は昭和25年5月3日に茨城県土浦市で生まれました。父は25歳、母は20歳でした。憲法記念日に生まれたので、名前は憲と名付けられました。戦争が終わったのが昭和20年8月15日でしたので、当時は戦後の復興も進んでおり、戦災の跡はあまり見ませんでしたが、米兵が乗ったジープよく見ました。父は戦後満州からの引揚者で満州では満州鉄道に勤務しておりました。戦後、満鉄の職員を国策で国鉄において雇用する方針もあり、父は国鉄職員に採用され、常磐線の土浦駅の電信掛として勤務しておりました。父は筑波山の麓の上菅間出身で叔父達と叔母は現在のつくば市に住んでいました。母は鹿児島出身でした。兄弟は3人で姉(3歳上)、妹(6歳下)です。私が育った頃には食べ物も不足することはなく、食糧事情は良くなっていました。私が生まれ育った場所は、戦前の霞ヶ浦にあった予科練の兵隊用の宿舎を戦後一般市民用に転用したもので、トイレ、炊事場は共同で薄暗く、風呂は無く、部屋は8畳一間でした。かすかに覚えているのは隣近所の夫婦がしょっちゅう夫婦喧嘩をするので怖かったことを覚えています。当時の生活は私の年代より年上の方々はご存じと思いますが。各家庭での電気製品はラジオのみでした。テレビ、冷蔵庫、洗濯機なんかありません。洗濯はタライで手洗い、生鮮食料品は保存が効かないので毎日買い物に行くか、保存が効く食料を食べていたと思います。母が言うには、父の国鉄の月給では月の半分でなくなってしまうので、父は泊勤務の明け休みにアルバイト的な仕事をしたり、後の半月はつけで食糧を購入したり、田舎からお米や食料をもらったりしていました。国鉄というところは国鉄一家と言われる不思議な組織で、土浦駅の片隅に物資部というものがあり、鉄道の仕事には全然関係ないのですが、職員家族向けに倉庫を改造した店舗があり、米、味噌、醤油、石炭等の日常生活に必要な物品はそこで現金なしでも、ほとんど手に入れることができました。当然そこの店員というか、担当者も国鉄職員でした。当時はどこの家庭も同じようなギリギリの状況だったと思います。私が幼稚園や小学生の頃、夏休み、冬休み、春休みの殆どをつくばの叔母の家に厄介になっていましたが、今考えると私の食費分の費用を浮かせることが主目的だったのかもしれません。私が4歳の時に、土浦市が市民の住宅不足解消の一環として、一戸建ての賃貸住宅、今風に言うと2Kを新築し、市民に貸し出す抽選が市役所で行われることになり、申込をしていた父と私で自転車に乗って一緒に抽選会場に行って、何も分からずに私が抽選箱を回したところ偶然にも当たったのです。競争率は20倍位あったと後から聞かされました。薄暗くて怖くて古いアパートを出て、新しい一戸建ての家(6畳二間、台所、お風呂、庭)に住めることがうれしかったのを覚えています。幼稚園、小学校、中学校2年生まで、その家で育ちました。その後、かなりの年月を経て土地と家屋は払下げになり、現在はその地に家を建て替えて父と母が暮らしております。現在父は89歳、母は84歳で、父は5年前に大病を患いましたが、二人で今のところ元気にしております。

3. 中学から高校&大学
 父は農家の5人兄弟の末っ子で学歴はありませんでしたが、一生を駅職員で終わりたくなかったようで、昇進試験を受けて、土浦駅勤務から水戸鉄道管理局に転勤しており、土浦から水戸まで毎日通勤しておりました。当時は電車の本数も少なく、父の通勤も大変なので、水戸の国鉄宿舎に引越することになり、中学3年から土浦4中から市立水戸2中に転校しました。土浦4中にそのままいれば、中学の成績の実績から県立土浦一高に進学していたと思います。土浦一高はつくばの研究学園都市ができてからは、東大の進学数等では水戸一高を逆転しています。水戸では当時の進学高は県立では水戸一高、水戸二高(女子高)、日立一高、緑岡高校位で、落ちた人は滑り止めの私立の茨城高校に進学するのが常でした。私は転校生だったので、水戸の状況を全然知らずで、今考えると水戸一高は少し敷居が高かったと思います。案の定、高校受験は失敗して滑り止めで合格していた茨城高校に進学することになりました。当時の茨城高校はほとんどの生徒が第一志望の水戸一高を落ちた者が入ってくるので、敗者の群れというか不思議な集団でした。水戸一高は水戸駅の近くで茨城高校は水戸の外れと場所が離れており、通学で一高生と会うことはあまりないのですが、それでも一高生に会うのが嫌で、高校には裏道ばかり通って通学していました。2年生頃になってこんな卑屈なことではいけないと考え直し、将来に向けてまた頑張ろうという気持ちになりました。茨城高校の先生方は人生の先輩として尊敬できる先生方がたくさんおられて、その影響もあったと思います。特に一番尊敬できる先生が白戸先生でした。質素な物理学校出の数学の先生でお住まいは日立市でしたので、学生と同じように毎日電車で通われて、水戸駅から茨城高校までの距離3.2kmを雨の日でも晴れの日でも、行も帰りも早足で30分位、腰弁で通われていました。白戸先生はエコ先生で当時から照明のスイッチをオフにしまくっていました。3年位前に亡くなられましたが、元気な時は同窓会にも来られて卒業生の活躍に目を細めておられました。現在の茨城高校は男女共学になり、中高一貫教育の進学校になっており、我々のころの滑り止めの高校の時の進学状況とは比べ物にならないようになっています。
 私は中学生のころから将来はエンジニアになりたいと思っていました。高校2年生の頃は国立大学の1期校は東北大学の様な地方の有名大学、2期校は地元の茨城大学、私立では早稲田大学理工学部、慶応大学工学部、上智大学理工学部なら入っても良いかなと漠然と考えておりました。今、考えると無謀な話で、茨城高校からは現役と浪人も含めて、東北大学には毎年1~2人、茨城大学には10人位、早稲田や慶応には2~3人、上智大学には2~3年に1人程度の進学率でした。当時の高校生は現役で合格できるのは30%、70%は一年浪人以上の様な状況で、進学指導も模擬試験等の偏差値は無視で、学生が受けたいようにさせてくれました。先生も現役では無理で、一年位予備校で勉強すれば希望の大学に合格できるかも位に安易に考えていたと思います。同級生も現役の時は、無謀に私立では早稲田、慶応等の超一流校にチャレンジして皆討死していました。現在の進路指導は偏差値等で受験時に志望校を決められてしまいますのでチャレンジ精神が昔より薄れているような気がします。時代の趨勢でしょうか?
私の現役の大学受験の年、昭和44年は大学紛争が激化して、東大と東京教育大(現在の筑波大)の入試は中止になりました。早稲田も当時学費値上げ反対闘争で4年間一度も試験が無く、すべてレポートだったと高校の同級生で早稲田の商学部に入った友人が言ってました。私の受験には入試の中止のことは関係ありませんでしたが、当然失敗で、夢打ち破れて、浪人生活をすることになりました。ただし、高校受験の失敗の時とは違って、友人達もほとんど浪人なので、それ程落ち込みませんでした。かわいそうだったのは、土浦一高や水戸一高で東大法学部を目指していた優秀な受験生達で、浪人するか一橋大学法学部に受験先を変更して進学していました。私は、父と母にお願いして、東京の予備校に通わせてもらい、水戸2中から水戸一高卒の友人と茨高卒の友人と東京の予備校に通うことになりました。1年間予備校で勉強した甲斐もあり、国立大学には合格できませんでしたが、私立の第一志望の上智大学理工学部機械工学科に合格できました。入学試験は完璧にできたと思ってましたが合格の自信はありませんでした。上智の理工と慶応の工学部がその年度、同じ試験日だったので、優秀な人は慶応に行ってくれたのかも知れません。上智大学理工学部機械科の入学生は現役10%(ほとんど推薦)、1年浪人70%、2年浪人以上20%位でした。上智大学では機械工学(自動制御)と体育会の硬式テニスに打ち込みました。上智大学はイエズス会が運営する大学でカトリックの総合大学でした。宗教の授業は特になく、人間学が唯一の授業で日本人の神父が授業をしました。上智では大学院修士課程まで行かせてもらいました。上智大学では市川教授と田村教授に出会うことができ、市川先生には制御工学の理論の実際や理論体系の美しさを教えていただきました。市川先生はもうなくなられましたが卒業後もおつきあいさせていただきましたし、田村先生とは住居が近くでもあり、今でもテニスを一緒にしたりして、今でもおつきあいさせていただいております。今年の5月末に、上智大学卒業後40年の祝会(パール祝)があり家内と二人で一緒に行ってきました。卒業後50年には金祝がありますのでそれまでは二人とも元気にしていたいと思っています。

4. 社会人生活
 卒業後は、三菱スペースソフトウエアという会社に就職しました。1976年は第二次オイルショックの影響で就職事情が悪くて、大手の会社には就職できませんでした。たまたま、卒業年度の12月頃、新聞広告を見ていたら中途採用の募集があり、新卒でも応募してよいかと問い合わせたところ受験させてくれました。入社後聞いたところによると結構な競争率だったそうです。三菱スペースソフトウエアという会社は私にとってすごく恵まれていました。当時、宇宙開発事業団が種子島から打ち上げていたNロケットの誘導制御系を担当していた会社でした。ロケットの誘導制御の勉強もできましたし、英語の論文も読めたし、最先端のコンピュータの勉強もできました。大学院を終了してもその延長で勉強していて給料がいただけるような感じでした。卒業後1年で同じ大学院(彼女はドイツ文学専攻)で学んでいた大坪直子さんと結婚することになり、直子さんが通っていたルーテル中山教会に時々行くようになり、結婚式の司式は松原先生にお願いし、1977年の3月12日にルーテル市ヶ谷センターで結婚式を挙げました。松原先生の牧師館は中山教会のすぐ隣にあり、牧師館と言っても平屋の古い家でした。ある日、結婚式の司式のお願いに伺った時に、先生のお宅に二人で通していただき、その時に畳の間から雑草が生えていたのを覚えています。奥様の悦子先生がそのままにしていたのは、今考えると何らかの意図があってそうしていたのかもしれません。結婚後、私達は東京の町田に新築の賃貸住宅を借り住みました。当時の私の給料が10万3千円で、賃貸住宅の家賃が4万3千円位だったと思います。当時の学卒の初任給は8万3千円位だったと思います。生活費の不足分は家内が英語の家庭教師をしたりして補填してくれました。1980年の3月12日には長男新が生まれ、1982年6月16日には次男光が生まれました。私は8年5か月勤務した三菱スペースソフトウエアを退職し、バーズ情報科学研究所に5年半勤務し、1990年に日本酸素(現大陽日酸)に転職して2010年まで20年間勤務した会社を60歳で定年退職しました。日本酸素では文部科学省の核融合科学研究所のビックプロジェクトに低温制御システムの開発で1994年から2008年まで14年間参画することができ、また自社プラントの制御装置の開発等、制御技術者として第一線で活躍できました。日本酸素は100年を超える歴史のある会社でしたが、不思議な会社で会社として必要な人材は中途採用でも管理職で採用してくれました。最近、新聞紙上に記事が載ってましたが、三菱化学のグループ企業になるようです。もともと芙蓉グループに属していましたが、三菱化学のグループ企業としてこれから生きていくようです。

5. 定年後の生活
 会社は雇用延長制度を使わずに60歳定年退職しました。
仕事の方は妹が経営する小さい会社の役員に就任し情報関係のサポートを行っています。また、同時に千葉大学工学部人工システム専攻(博士課程後期)に進学しました。進学の動機は技術者として今までの開発したシステムの集大成として論文としてまとめたいと考えたからです。入学後、千葉大学工学部建築学科が主体的に行っていたSolar Decathlon Europe 2012に参画することになり、ソーラ発電関係の電気システム関係を担当し、2012年8月末から10月初めまで40日間、ソーラハウスの建築、競技会、解体等でスペインマドリッドに行ってきました。Solar Decathlon Europeとは一次審査を通った世界の20大学がスペインマドッリドの王宮の近くの公園に実際に決められたルールに従い、実際にソーラハウスを10日間で建築し、審査が640点、計測による得点が360点の合計1000点で得点を競うものです。日本から初めて競技会に参加したこともあり、成績は15位/20チームで惨敗でした。優勝チームはフランスのチームでした。敗因は審査資料の準備不足とエネルギ関係で思うように得点を取れなかったことでした。原因はソーラの発電システムが現地で一部正常に作動しなかったことでした。大学内で再チャレンジするか再検討したところ、もう一度2年後にフランス・ベルサイユで行われるSolar Decathlon Europe 2014に参加することに決定し、体制の再構築や建築する住宅の設計思想などの準備を進めて、つい最近ですが、2014年6月30日~7月11日まで競技会が行われました。千葉大の取り組みはNHKのニュース等でもちょっと取り上げられましたが、最終日の2日前までは暫定首位でしたが、EUの大学チームに追い上げられて最終結果は11位に終わりましたが、部門賞(3位までトロフィと表彰される)として建築とエネルギ部門で2位、建築&エンジニアリング部門で3位の成績を収めることができました。優勝はイタリア、2位はフランスでした。トップとの差は70点/1000点満点でしたが、今後分析することになると思いますがかなり善戦したと思います。千葉大は体制的(国立大学なので資金集めが容易では無いなど)にちょっと弱いところがありますが、東大、早稲田、慶応ならOB会の資金支援もかなり見込めますし優勝は無理にしてもかなり良い成績を出せるのではないかと思います。東大と芝浦工大の先生がベルサイユまで競技会を見学に来ていましたのでその気はあるのではないかと思います。是非、今後日本の大学でもチャレンジしてもらいたいと思います。
 博士課程での研究の方は、Home Energy Management Systemの開発をテーマにしています。私の将来の夢は、再生可能エネルギの比率を高めて、原子力発電所が無くてもエネルギ供給が可能となるエネルギ体制を作り上げることです。ソーラパネルのコストダウンが進み、蓄電池として利用可能な電気自動車が低コストで供給されるようになれば充分可能であると考えております。現在のソーラパネルは40万/kW位ですので、5kWのソーラパネルなら200万円の先行投資が必要ですが、屋根に載せれば電気代は売電買電でほぼゼロになります。また、ソーラ発電が増えると系統連系上電圧上昇等の問題が発生しますので、住宅用蓄電池や電気自動車の普及が必須となります。私の予測ではソーラパネルと電気自動車のコストダウンも進みますので、近い将来原子力発電が賄っていた30%程度のエネルギであれば再生可能エネルギで補えると思います。また、2年後には電力の自由化が行われますので、
関東では東京電力のみの電力供給体制でしたが複数のエネルギ供給会社から選択できるようになりますので、確実にコストダウンができるように変わっていくと思います。
現在、千葉大大学院の博士課程の内規で博士号を取得するには、英語の査読付き論文を1篇と和文の査読付き論文を一遍提出することが必須条件で、英語の論文は承認され、これから和文の査読付き論文を提出後、博士論文を作成することになりますので、博士課程は今年9月末日で満期退学しますが、論文作成にもう少し時間がかかる予定です。
 もう一つの重要な仕事が高等専門学校の非常勤講師です。本年度は都立産業技術高等専門学校(旧都立航空高等専門学校)で「メカトロニクス」と「制御工学」を教えております。高等専門学校は中学卒業後入学する5年制の学校です。国公立がほとんどですが、私立も少しあります。卒業すると短大卒業の資格が得られます。優秀な学生は4年生の大学の3年に編入します。約半分位が進学希望のようです。私が担当しているのは5年生なので大学では2年生に相当します。週に2科目で金曜日の朝8時40分から11時55分まで20歳位の学生に教えています。授業の準備やら試験問題作成、レポートの課題作成、採点等4月~8月、10月~2月位の間、少々忙しくしております。メカトロニクスは会社で学んだことを役立てていますし、制御工学は上智大学および大学院で学んだことをベースに学生に教えております。

6. 終わりに
 私のこれまでの人生の歩みの一部について長々とお話してきましたが、誕生、受験、進学、就職、結婚、転職、定年、大学院進学、高専の非常勤講師等、すべての事が神様のご計画に思われてなりません。私たちは皆神様のご計画の上で生かされているにすぎないことが分かります。もし、父と母に出会いが無ければ、私は生まれていません。地元の大学に進学していれば今の家内との出会いもありませんし、新も光も生まれていません。松原先生にお会いしなければ中山教会、津田沼教会にも通うことはなかったでしょう。また、私は会社員の時に人間関係で悩むことがあり、31歳の時に洗礼を受けました。洗礼を受けてから悩み事は、すべて神様に祈ることにしたらすごく楽になりました。
 津田沼教会では教会員の減少や、教会の財政の諸問題で教会の中がぎくしゃくしておりますが、この様な状況を神様はお望みでしょうか?これも神様が私達に与えてくださった試練なのではないでしょうか?教会員一同できる限りのことはすべきですが、すべて神様のご計画なのですから、祈りつつ、ゆだねたらいかがでしょうか?教会員同士で仲たがいしたりすることを神様がお望みでしょうか?是非、皆様もう一度考えて見てください。
  最後にお祈りをします。本日は信徒礼拝で証をすることができて感謝申し上げます。私の事を支えてくれた家内、今は亡き義父と義母、父や母、兄弟、会社でわたくしの事を支えてくれた人達に感謝いたします。また、神様、私にいろいろな試練やご計画を与えていただき深く感謝申し上げます。貴方が私に与えてくださったタレントをすべて発揮できているかわかりませんが、これからもあなたの教えに添えるように努力したいと思います。この祈りをイエスキリストの御名によりお捧げいたします。

アーメン。

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2014/08/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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