津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「世界平和が訪れる日」(ミカ書4:1-5)
ミカ書4:1-5、2014・08・03、平和の主日、エフェソの信徒への手紙2:13-18、ヨハネ福音書15:9-12、讃美唱(イザヤ書2:2~5)
 
ミカ書4:1-5

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうに木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。



説教「世界平和が訪れる日」(ミカ書4:1-5)

日本福音ルーテル教会では、8月の第1日曜日を平和の主日として、毎年、今日読まれました、ミカ書、エフェソの信徒への手紙、そして、ヨハネ福音書からのみ言葉が読まれ、一年に一度ですが、世界平和について思いを巡らします。
そして、私はほとんど、毎年、旧約聖書から、ミカ書の今日の部分4章1節から5節までを通して、多分、一年中でここだけではないかと思いますが、平和の主日にはここから説教をさせていただいています。それほど、旧約聖書では、最も有名な記事の一つであります。ご存じのとおり、それは、イザヤ書の2章にも殆ど同じ記事がありますが、アメリカの国連本部の壁に刻まれている聖句であります。「彼らは剣を打ち返して、鋤とし、槍を打ち返して鎌とする、もはや、国は国に向かって剣をあげない」という御言葉であります。
この言葉が、今から2千数100年も前に、ミカ書の中に、記されているのであります。これは、驚嘆すべきことであります。ミカとイザヤの二人の内、どちらの記した言葉なのか、説が分かれていますが、おそらく共通の伝承に基づいているのでありましょう。
しかも、ミカ書では、そのすぐ前には、イスラエル、エルサレムの指導者たちが、賄賂を受けたり、暴虐な政治、あるいは、邪悪な祭司たちのことが、あらわに暴露され、真実の礼拝がなされていないと嘆かれ、批判されているのであります。また、周囲の国々の暴虐や圧政、イスラエルの国への圧迫や侵入が記されているのです。
その中にあって、このミカ書4章1節から5節は、それまでとは、まったく違った終末の日々における世界平和の実現が預言されているのであります。終わりの日々にこうなると。すなわち、主の山は、つまり、エルサレムは、すべての山々よりも、高く上げられ、据えられる。800メートル位の標高のイスラエルの丘が、世界中のどんな山よりも高く上げられ、据えられる。そして、諸国の民は、そこに向かって、流れ来たると、言うのです。我々は主からその道を学ぼう。我々は、主の山へ行こう、なぜなら、主の教えは、エルサレムから、主の言葉は、シオンから出て来るからと、万軍の主の口が告げられたからだと。我々は、主、ヤハウェの道から学ぼう。
そして、あの有名な預言が続くのです。もはや、国は国に向かって、剣をあげず、彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して、鎌とする。彼らは、もはや、戦うことを学ばないと。戦争の道具が、農業の道具へと変えられるというのです。
そして、主の民である人は、自分のぶどうの木の下に、あるいは、いちじくの木の下に座って、喜びを満喫するというのです。小作人として搾取される労働ではなく、ささやかながらも、祖先から受け継いだ自分の土地で、平和と憩いを満喫している、当時の農民たちにとって、理想的な人生を与えられているのであります。なぜなら、万軍の主の口がそのように語ったからだ、と。
そして、最後に、おのおのの諸国民は、おのおのの神の名によって歩む。しかし、私たちは、私たちの神、主の名によって、永遠から永遠に歩むと、歌っているのであります。
そのような世界平和は、それから、二千数100年を経った現在、いまだに実現していません。それは、終末的は神の支配したもう終わりの時まで、実現不可能として、現実世界の中では、今は理想郷として諦めるべきなのでしょうか。
決して、そうではありません。今日の第2朗読のエフェソ書や今日の福音、ヨハネによる福音書にありましたように、私たちの中に巣食う敵意や、誤解や、偏見、キリストが私たちを愛してくれたように、人が人を互いに愛し合うことができない罪から、戦争も生まれてくるものです。
私たちが互いに赦し合い、お互いの相違を認め合い、家庭に、職場に平和を実現することから始めましょう。それは、教会の中においても、同じことが言えます。
そして、ミカ書の記している世界平和の実現のために、今日の主日の祈りにあるように、世界の指導者たちが、主なる神の英知によって導かれるように祈り求めて行きましょう。
日本の国は、周囲を海に囲まれ、戦後69年、平和憲法のもとにあって、直接には戦争を起こさないで、平和を保って来ました。イスラエルのような国は聖書の書かれた時代から、四方を周りの国と接し、ミカ書の時代も、今も戦争や紛争に翻弄されてきました。しかし、今はさらに世界が複雑化し、他国の戦争にも巻き込まれやすく、昨今も集団的自衛権を巡って、日本国内外が、さらに世界が暗雲に包まれようとしています。
このような中で、私たちは、キリストが、剣を取る者は剣で倒れると言って、剣をおさめさせ、十字架の死を選びとられたことを知っています。
また、主イエスが平和を実現する人たちは幸いであると言われたことをよく知っています。彼らは神の子と呼ばれるであろうとマタイは山上の説教の始めに記されているのです。

私たちの教会の本棚に、一冊の、エルサレムの近くに住んでいた、15歳まで生きて、平和を熱望していたユダヤ人の、バット・ヘン・シャハクという少女の日記が本になったものが保管されています。最後は、テル・アビブに友だちと遊びに行って、アラブの少年の自爆テロによって短い生涯を終えました。何と15歳の誕生日の日の出来事だったと言います。しかし、彼女は、エルサレムの都に、ユダヤ人と、イスラム教徒と、キリスト教徒が一緒になって、混在しながらも住んでいるのは、すばらしい。しかし、どうして、アラブ人とイスラエル人は争いをやめないのか。世界平和が永久に来ないだろうか。しかし私は、その日が来ることを信じているし、心からそれを願っているとこの15歳の中学生は、熱望していました。
私たち日本人も、8月6日と9日、原爆の落とされた日、世界平和について祈りを合わせます。宗教の違いを超え、民族の違い、また、信条やそれぞれの生き方を、認め合って、互いに尊敬し合い、キリストの平和を、シャローム、完全さ、調和の状態を、今日から、私たちも、もう一度新たに祈り求めて行きましょう。


















スポンサーサイト
2014/08/03(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。