津田沼教会 牧師のメッセージ
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「弟子として目覚めて生きよう」(マタイ10:34-42)
マタイ10:34-42、2014年7月20日、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23、
 
マタイによる福音書10:34-42

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教「弟子として、目覚めて生きよう」(マタイ10:34-42)

 私たちは、12使徒が宣教へと、主イエスによって派遣されるに際しての、きめの細かい主イエスの配慮に満ちたお言葉を、聞かされています。
 ややもすると、今回だけの主イエスの言葉として、見失いがちなのですが、これは、先にありました、12弟子たちへの命令と励まし、警告と注意のお言葉として、続いている演説の一節なのです。
 そして、それは、ただ12人だけに、2000年ほど前に語られた言葉ではなく、福音記者マタイの教会で読み続けられ、ファリサイ派からの迫害の中で、信徒たち、弟子たちに読み継がれ、そして、現代の私たちも、環境こそは大きく違っていますけれど、私たちの生活の場で、3年に一度、読みなおされ、説教されている、今なお、力と慰めに満ちた、主イエスのお言葉なのです。
 今日のこの福音記事をめぐって、それを、もう一度、思い起こしながら、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 主は、今日の個所で、始めに、「あなた方は、私が平和を、この地上に投ずるために来たのだと、考えないように」と、そうではなくて、むしろ意外な言葉ですが、剣を投ずるために来たのだと、言われます。メシアである主イエスの到来によって、分裂が引き起こされると言うのです。争いが起こり、不和や騒ぎが、しかも親しいはずの家族の中で起こるというのです。
 クリスマスの時、主イエスの誕生の時には、天使たちが歌い、「地には、み心に適う人間どもに平和があるように」と合唱したのではなかったでしょうか。
 そして、また、先週の、主イエスの12弟子派遣に際しての命令、指示においては、行く先々の町や村に入ったら、これこそと思えるような家を調べ、その家に入って、挨拶するように、その家の人が、平和に価すれば、その平和は、その家にとどまるであろうと、主は約束なさったのではないでしょうか。
 しかし、真の平和が与えられる前に、主イエスのメッセージを、受け入れる人と、受け入れない人とに、必ず分断され、分裂がもたらされるのです。ルカによる福音書の主イエスが誕生して間もないときに、エルサレムの神殿に両親に抱かれて宮詣でをしたときに、出会ったシメオンは、神をほめたたえると同時に、この子によって、多くの人が倒れたり、立ち上がったりすることになると預言したのでした。
 その通りに、主は、ここで、ミカ書7:6を引用して、人は父にはむかい、娘はその母にはむかい、嫁は、そのしゅうとめにはむかう、その人の敵は、その人の家の者たちであろうと、前もって、12使徒に、心備えをさせるのであります。
 私たち、この主のお言葉が語られてから、2000年近くなりますが、特に日本では、今なお、家族ぐるみで主イエスを信じるキリスト者が少ない現状の中で、主イエスのお言葉どおり、主イエスの弟子となるかどうかをめぐって、対立、分裂が、家族の中で起こっていない方が、珍しいのではないでしょうか。主はそれも御存じで、これらの言葉を語られたのであります。
 そして、さらに、「私よりも、私を超えて、父母を愛する者は、私にふさわしくない。私以上に、息子、娘を愛する者も、私にふさわしくない」と、厳しいお言葉を語られます。
 そして、「自分の十字架を負って、私について来ない者も、私にふさわしくない」と言われます。家族への親愛の情を否定しているわけでは決してありません。主イエスと共に到来している、神の国、神の支配に身をゆだねて、それをないがしろにすることなく、神の福音を宣べ伝えることが、何にもまして、真剣に求められ、第一とされねばならないというのです。
 そして、「自分の命を見出そうとする者は、それを失い、私のために、その命を失う者は、かえって、それを見出す」と言われます。
 私たちは、いろいろなものを欲しがりますが、あれもこれもは得られない者であり、あれかこれかを選びとらねばならない者です。
 今日の「主日の祈り」にありましたように、なにものにもまさる喜びを、私たちは求めなければならない。そのためには、主イエスの弟子として、十字架を担いながら、主イエスの後に従って行くことが、必要なのです。
 そして、そこにこそ、十字架を担う苦しみも伴ないますが、それ以上に、大きな喜びを、主は約束なさっているのであります。
 今、私どもの津田沼教会は、会堂建築のときの本教会からの借入金の返済に行き詰っていますが、これらの困難も、私たちが主イエスの弟子として、十字架を担い、主イエスの足跡にみんなで従って行くときに、必ず解決が与えられるのであります。
 そして、最後の文章は、慰めに満ちた主イエスの約束の言葉であります。
 「あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を遣わされた者を受け入れるのである」と言われ、私たちのメッセージを受け入れる者は、実は神の使信、主イエスの使信を受け入れるのだと言われ、キリスト教の預言者を、預言者の名へと、すなわち預言者という理由で受け入れる者は、彼の報い、報酬を受けとり、正しい者を正しい者の名のゆえに、正しい者という理由で受け入れる者は、その報いを受けると言われ、これらの小さい者たち、12弟子たちに、冷たいものの一杯でも飲ませてくれる者は、彼の報いを失うことは決してないと約束されるのであります。
 私たちを、冷たい水の一杯でももてなしてくれ、また、私たちの使信、良き知らせ、福音を、水一杯だけでも飲ませてくれ、受け入れる者までも、あたしたちと同じ、大きな祝福を、キリストが、また、キリストを遣わした父なる神が約束してくれています。
 私たちは、これらの言葉にはげまされながら、主イエスの弟子として、常に目覚めて、主のご用に当たっていきましょう。アーメン。





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2014/07/20(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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