津田沼教会 牧師のメッセージ
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「今はよき訪れのとき」(マタイ9:35-10:15)
マタイ9:35-10:15、2014年7月6日、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―聖餐式)、出エジプト19:1-8a、ローマの信徒への手紙5:12-15
 
マタイによる福音書9:35-10:15

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次の通りである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落しなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」






説教「今はよき訪れのとき」(マタイ9:35-10:15)

「今はよき訪れのとき」と説教題をつけました。なぜ、今日の福音の記事から、「今がよき訪れのとき」なのか、今日の福音からしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
それにしても、もう7月に入り、あっという間に半年間が過ぎて行きました。私は、今年は例年になく慌ただしく、ここまで過ごしてきました。しかし、イエスも言われたように、必要なものは、意外と多くはなく、いや一つであるとまで、イエスは、ベタニアの姉妹、マルタに語ったのでありました。
さて、今日の福音は、山上の説教や、主イエスのなさった癒しのわざが、今日の部分の前にあり、それにつながる4章23節には、今日の出だしの文章と同じような要約文で始まっています。
いよいよ、主イエスが弟子たちに、天の国が近づいたこと、すなわち、み国の福音をガリラヤの町々、村々を巡り歩いて、多くの群衆に伝え、また、あらゆる病気や患いを癒されながら、また、悪霊を追い払いながら、そして、彼らの会堂で教えながら、宣教しておられたのであります。
しかし、主イエスは、群衆が、羊飼いのいない羊どものように、疲れ果て、横に倒れ伏しているのを、御覧になって、はらわたが疼く思いになられます。私どもが、主イエスから離れて、悲惨な状況になるのを、主イエスは、人事ではなく憐れまれるお方です。
主イエスは、弟子たちに、収穫は多いが働き人が少ない。収穫の主に願って、働き人を主が送ってくれるように願いなさいと、ここで語られました。現在の私たちのルーテル教会でも、み国の福音を宣べ伝えるため、特に牧師となって、献身する神学生が少ないのは、主イエスの時代と同じ状況が続いています。
さて、イエスは、12弟子たちを集め、彼らに汚れた霊を追い出す権能、あるいはあらゆる病気や患いを癒す権能を与えられ、宣教に送り出そうとします。その12使徒には、筆頭に、シモン・ペトロが挙げられ、最後には主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが記され、その間には、「徴税人」マタイも含まれています。
そして、12弟子たちの派遣にあたって、彼らを指導する場面となっています。彼らに、異邦人の道に行ってはならない、また、サマリア人の町に入ってはならないと言われ、むしろ、イスラエルの家の失われた羊どものところに行きなさいと言われます。
ところで、主イエスの時代は、決して恵まれているとは言えず、イスラエル史においてももっとも悲惨な、希望を持てない時代であったと言います。しかし、そのような中でこそ、主イエスは、御自分の使命を発揮なさり、み国の福音を告げ知らせ、天の国が近づいたと、12弟子たちにもそのみ言葉を託して、派遣なさろうとしておられるのです。なぜ12人だったかと言うと、それは、イスラエルの12部族から来ています。新しい神の民、新しいイスラエルがここに誕生しているのです。そして、それは、現代の私たち、現代の教会にまで、受け継がれて来ているのです。
主イエスは、なぜ異邦人の道へと行くな、サマリア人の町へと入るな。むしろ、失われているイスラエルの羊のもとへ出て行きなさいと言われたのでしょうか。生前の主イエスは、イスラエルへの宣教を説かれ、復活後の主イエスによって、初めて世界宣教、異邦人宣教が説かれるようになったのでしょうか。
歴史的経緯は、確かめようがありませんが、いずれにしても、主イエスは、自分たちに与えられている場所は、まず、イスラエルにおいてであり、自分たちに与えられた特定の場所で、そこに、天の国は近づいたこと、神の支配が既に始まっていることを、伝えるように促しておられるのではないでしょうか。たとえば、今の私にとっては、ここ、津田沼教会が自分にとって宣教すべく与えられているその優先場所であります。
さて、弟子たちは、主イエスから、悪霊を追い払い、病気を癒す権能をゆだねられて、宣教へと遣わされていきます。そして、神の福音、良き知らせ、すなわち神の支配が、既に今、ここで、現在しており、その絶望的な状況にあった、選民イスラエルの家の失われた羊どものところに、良き知らせ、神の助力が、主イエスを通して来ていることを伝えるべく、12弟子たちが遣わされて行きます。
そしてまた、この津田沼教会に属する私たちも、牧師も信徒もその同じ権能、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒す権能を与えられて、この世へと遣わされています。そして、主イエスと同じわざを行う権能を与えられている。死者をも起き上がらせ、病人たちを癒し、重い皮膚病の者たちをきよめ、悪霊どもを追い払いなさいと、主イエスは命じられます。そのような奇跡を行う力は、今の私たちには、考えにくいですが、その趣旨は、現代の私たちにも、理解できます。そして、主は、ぜいたくではなく、生活と宣教に必要不可欠は生活手段は、神によって与えられる。それで、行く先々で、泊まる家を見つけ、平和があなたと共にありますようにと挨拶し、そこを拠点に神のよき訪れを告げ知らせなさいと、命じておられます。
マタイでは、食糧を入れるナップサックも、杖も履物までも持って行かないようにと、まるで、不可能なところまで、徹底して放棄するようにと、一段と厳しい命令となっています。
それだけ、ぜいたくや、物質的豊かさに対して、警戒するように、マタイのイエスの言葉は、徹底されています。そして、よく調べて、その行く先々の町や村で、ふさわしい人を捜し、その家に、その町から出ていくときまで、とどまるように、主は命じられます。その家に入るとき、家の人に挨拶しなさい。その人が挨拶にふさわしければ、その平和は、その家にとどまるが、ふさわしくなければ、その平和は、あなた方に帰って来る。だから、そのときには、出ていくとき、足の裏の塵を拭い去って、裁きのふるまいを示しなさい。その町よりも、終わりの日には、ソドムやゴモラの方がまだ耐え忍び易いであろうと、主イエスは明言されているのです。
「今はよき訪れのとき」であり、神の支配は、今、ここで、私たち津田沼教会のメンバーと共に、既に存在しています。この喜びを、周囲の人々にも告げ広めてまいりましょう。
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2014/07/06(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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