津田沼教会 牧師のメッセージ
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「いつも、あなた方と共に」(マタイ28:16-20)内海望牧師
マタイ28:16-20、2014年6月15日、三位一体主日(典礼色―白―)、イザヤ書6:1-8、コリントの信徒への手紙二13:11-13
 
マタイによる福音書28:16-20

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


説教「いつも、あなた方と共に」(マタイ28:16-20)内海望牧師

 マタイは、イエスさまが私たちに近づいて来られる場面で、福音書を閉じています。これは素晴らしいことではありませんか。マタイは降誕の出来事を「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という言葉で始めていますが(1章23節)マタイ福音書全体を通して、このインマヌエルという言葉が鳴り響いているのです。イエスさまは、最後まで私たちに近づき、共にいて語りかけて下さる方なのです。この「語りかける」という言葉が大切です。神さまは、創世記の最初から「語りかける方」です。「語りかける」ということは「心を通い合わせる」ということを目的としています。つまり、「愛し合う」ということこそ、神さまにかたどって創られた人間の特徴なのです。神さまから与えられた最大の恩恵なのです。
 その恵みを、傲り高ぶった人間が失ってしまったのが、バベルの塔です。バベルの塔は、人間が自分の技術に己惚れ、神の場所を簒奪しようと建築し始めたのです。結果はお互い言葉が通じ合わなくなり、混乱のうちに挫折するのです。それ以来、人間の世界は「心を通い合わせる力」を失い、世界は自我と自我、利己と利己のせめぎあいの場所となってしまいました。
 このような世界を、もう一度新たに建て直したのが、聖霊降臨の出来事です。聖霊が注がれた時、全世界から集まっている人々が、弟子たちの説教を、夫々の生まれ故郷の言葉のように理解することが出来たのです。それが、新しいイスラエルの民、教会の誕生になったのです。言葉が違っても、心を通い合わせることが出来るようになったのです。
 それでは、今、ここで「語りかけられている弟子たち」はどうであったでしょうか。「疑う者もいた」という言葉が心に刺さります。弟子たちの間に、「不信仰」は最後まで残っていたのです。しかし、私たちは弟子たちを責めることは出来ません。私たちも決して信仰深いとは言えません。どちらかというと自分の利益を先に考え、行動し、神さまのことは忘れてしまうような存在です。「私は罪人です。不信仰な私を助けて下さい。」と告白しないでは一時も生きていけないような不安定な脆い信仰しか持ち合わせていません。
 それでも、イエスさまは、そのような弟子たち、そして、私たちに近づき、語りかけて下さる方なのです。イエスさまは、まさに、そのような不信仰な罪人を贖うために、十字架に死に、罪の赦しを与え、復活によって新しい命を与えて下さる方なのです。素晴らしい、しかし、まことに高価な、大きな恵みです。
 御利益信仰というのは、「私の願い」を叶えて下さる方を拝む信仰ですが、イエスさまは、私たちの小さな願いをはるかに超えた大きな恵みを無償で与えて下さる方なのです。そのために自分のいのちさえも投げ出して下さる方なのです。「そのために」と言いましたが、「私のために」と言い換えたほうが良い言葉です。「疑う弟子たち」は「イエスさまは、他ならぬこの私を救うために命を捨てて下さった」という事実を知った時、どのように感じたでしょうか。パウロは、「キリストの愛、われらに迫れり」(コリント二5:14)と叫んで、その喜びを表わしています。その愛に押し出されて、どうしても、このキリストの愛を人々に伝えたいと立ち上がったのです。ペンテコステの朝、何者をも恐れず、堂々と説教したペトロも同じ心であったことは間違いありません。イエスさまの恵みは、私たち人間の小さな願い(打算)を吹き飛ばし、新しいいのちの息吹を与える大きなものなのです。私たちは、イエスさまの恵みを自分の小さな願い(打算)にすり替え、矮小化してしまっているのではないでしょうか。
 恵みはここにとどまりません。更に、イエスさまは、私たちが「疑う者」「弱い信仰しか持てない者であることは良くご承知です。しかし、それでも、私たちに近づき、使命を与え、「愛の器」として用いようとして下さるのです。
 それでは、イエスさまが私たちに与えて下さる使命とはどのようなものでしょうかそれは、「すべての民を私の弟子としなさい。」というものです。これは、キリスト教を全世界に広めなさい」ということでしょうか。断じて違います。「恵み」を、私たちの理解できる小さな打算にしてしまうと同じように、私たちは、「伝道」という言葉も矮小化してしまい、イエスさまの大きな愛の心を見失うことがあります。「何人受洗者がでたか」とか「礼拝出席者が何人増えたか」など。それらが無意味であるとは言いません。一つづつ積み重ねて行くことは大切です。しかし、問題は、いつの間にか、そのようなことばかりを問題として、イエスさまが与えて下さった恵みまで小さくしてしまう点にあります。
 イエスさまが、「すべての民を私の弟子としなさい。」とおっしゃる時、それは、『「地の果てまでも」「最後の一人に至るまで」、私の愛は伝えられねばならない。』ということなのです。イエスさまの十字架と復活によって、人間の最後の敵である罪と死は滅ぼされたのだ、だから、共に新しい命に生きよう、と最後の一人にまで呼びかけよという意味なのです。この他に、目的はありません。ひたすらに、言葉と行いによってイエスさまの愛を伝えることです。
 しかし、「洗礼を授け」とあるのはどうしてでしょうか。洗礼の意味を考えてみましょう。「洗礼とは、古い罪人が溺死し、新しい命が与えられる出来事」です。純粋に「恵みの賜物」です。「信者獲得の手段」などではありません。これによって弱い私たちがイエス・キリストの愛にしっかりと結び付けられるのです。私たちに生ける命の水を与えてくれる力なのです。「この賜物を携えて、私の愛を伝えなさい。」とイエスさまは弟子たちを送り出そうとしているのです。イエスさまは、私たち罪人をも、このように大きな使命のために用いるとおっしゃっているのです。
 しかし、イエスさまの言葉はここで終わりません。更に、「(見よ、)わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる。」と約束を与えて下さるのです。送り出すだけで、「あとは君たちで頑張れ」とおっしゃるのではありません。「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」(ヨハネ福音書14章18節)と約束して下さったイエスさまは、その約束を必ず守って下さる方です。インマヌエルがここにも出てきます。これに優る平安があるでしょうか。
 私たちの信仰など小さいものです。つかず離れずのような頼りないものです。しかし、私たちの信仰がどんなに頼りないものであっても、イエスさまは、私たちをあてにしてこの大きな使命を果たすために、送り出して下さるのです。だからこそ、「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる。」と明言して下さるのです。これは、「あなた方の間に聖霊を残しておく」という意味です。あのペンテコステの朝に、弟子たちに注がれた聖霊は、今も教会に注がれているのです。このことを信じる時、私たちはあらゆる不安や絶望から
解放されます。この世界にはいまだにバベルの混乱が満ちているように見えます。しかし、私たちは断固として、「インマヌエル」の事実を信じましょう。新しい時、救いの時は既に始まっているのです。
 19世紀終わりから20世紀中葉まで活躍したシュニーヴィントという聖書学者がいます。その注解書は、時を経た今でも色あせず用いられています。彼が死の床で語った言葉が残されています。それは、「私はもう祈ることが出来ない。苦痛があまりにも烈しい。しかし、私は、いつも私のために祈りたもう方にしがみつく。」というものです。自分が祈ることすらできない全く無力の中にあることを知りつつ、キリストが共にいて、自分のために祈り続けて下さるという恩恵に身を委ねてその生涯を終わったのです。
 私たちの人生があとどれだけ残されているのか誰も分かりません。しかし、「いつも、共にいる」と約束して下さったイエスさまによってあてにされている一人であることを信じ、与えられた日々をイエスさまの愛を伝えるために生きて行きましょう。真剣に、しかし、「共にいて下さるイエスさま」によって平安を与えられた者として、軽やかに。「最後の一人にまで」。その力を、聖霊は必ず与えてくれます。その時、私たちは確信をもって、「アーメン。私を遣わして下さい。」とイザヤと共に答えることが出来ます。
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2014/06/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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