津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天に上げられるキリストの祝福を身に受けて」(ルカ24:44-53)
ルカ24:44-53、2014年6月1日、昇天主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23
 
ルカによる福音書24:44-53
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。




説教「天に上げられるキリストの祝福を身に受けて」(ルカ24:44-53)

皆さん、今日は主イエスの昇天を祝う主日です。先日の5月29日の木曜日が昇天日でありました。主の復活から40日目です。
そして、来週の主日が50日目、すなわちペンテコステ、聖霊降臨祭です。私たちは、今年は4月20日の日曜日が、復活祭、イースターで、その日から、主のご復活を祝って来ました。
しかし、今日は、復活の主の地上での最後の日です。それにもかかわらず、今日の弟子たちは、大きな喜びと共に、主イエスと別れて、ベタニアの山から、エルサレム神殿の境内へと、戻って来て、「絶えず」、これは文字通りには「すべてのことを通して」と訳せるのですが、弟子たちは、そのようにして「神をほめたたえていた」と、ルカ福音書は、終わっているのです。
そして、その同じ記者ルカによる第2巻の使徒言行録へとつながっているのです。この不思議な福音書の結末がどうして、起こったのか、しばらくご一緒に考えてみましょう。 
ルカ福音書は、エルサレム神殿の中での祭司ザカリアの出来事から始まっています。それは、ザカリアのその時の恐れと不信仰から、始まっています。
そして、ルカ福音書は、9章51節から、エルサレムの十字架に向かっての、そして、主の復活と昇天に向かっての「旅の出来事」として記されています。
弟子たちは、この9章51節以来、主の受難、死と復活について主から聞かされていましたが、実際にどういうことなのか、主の十字架の時までとうとう分かりませんでした。
しかし、復活の主に、エマオで二人が気づき、エルサレムに引き返します。そして、主は、ペトロにも現れたことを知らされています。
そして、今日の記事の直前では、「弟子たちの真ん中に」、三度目に主が現れ、お立ちになります。主は、「生前に言っていた私の言葉は成就しなければならなかった」と、言われ、「モーセの五書、預言者たち、そして、詩編は、すべて私について記されたものである」と言われ、「その通り、メシアである私は苦しめられ、死人の中からよみがえり、あなた方のところに現れているのだ」と言われ、あなた方は私の証人になり、エルサレムから始めて、「その名によってすべての民に、罪の赦しにいたる悔い改めが、告げ広められている」と書かれていることを、彼らに言われたのです。
文字通りに訳すと「彼のその名の上に罪どもの赦しへの悔い改めが告げ広められている」というのは、神さまが主体となって既に罪の赦しを聖書の中で宣言しておられるということです。
それは、悔い改めが既に告げ知らされていることを、弟子たちが宣べ伝えるのです。イエスの名によって、そのことをも宣べ伝えるというのは、既に神によって罪が赦されていることから来る悔い改めを弟子たちが、証人となって、伝えて行くのです。神がイエスの受難、復活をもとに、悔い改めを呼びかけておられるのです。
イザヤ書44章21、22節にこうあります。
「思い起こせ、ヤコブよ、
 イスラエルよ、あなたはわたしの僕。
わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。
イスラエルよ、わたしを忘れてなならない。
わたしはあなたの背きを雲のように、
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」
私たちが、悔い改めたから、罪が赦されるというのではなく、神によって、その憐れみによって、私たちの罪が先に赦されていることを、イスラエルの民だけでなく、ルカの主イエスは、全世界の民に告げ広める、主イエスの復活の証人に、私たちは、既になされていることを告げるのであります。
そして、旧約聖書が、キリストである主イエスについて約束し、預言されているものであることを、復活の主は、弟子たちの心の目を開いて、理解させたのであります。
こうして、イスラエルの民だけでなく、全世界の民に、エルサレムから始めて、復活のイエスの証人として、私たちも立てられているのです。こんな私がとも思いますが、主は私たちをも、いや、この私たちをこそ、ぜひとも必要とすると、保証してくださっています。
そして、主は、弟子たちをベタニアの方まで連れて行き、両手をあげて祝福されます。それは、十字架の傷跡の残る主が、天へと上げられながら、天と地をつなぐ祝福となるのであります。
私たちの悲しみも喜びも、この主が受け入れ、祝福して下さるのです。礼拝の終わりに牧師が祝福しますが、これは、この時の復活の主の祝福なのです。祝祷と言う言葉もありますが、主イエスの側からの祝福その者であります。
弟子たちは、この別れが、悲しみではなく、全人類への祝福によって、父の右の座にお着きになるものであり、今からは、この主と父が、地上の残される私たちに、聖霊を遣わして、私たちを慰め、励ますことを知って、弟子たちは、復活の主を礼拝し、ひれ伏して、大喜びの内に、エルサレムに戻って、従順に約束されたもの、すなわち聖霊が降るのを待ち、神をほめたたえていたのであります。主の「祝福」も、私たちの、神に対する「ほめたたえ」も同じ言葉であり、「ほめる」とか、「良く言う」という意味であります。
私たちもこの日の復活の主によって祝福され、喜びも悲しみも、主にゆだねて、聖書を悟らされ、「神をあらゆることを通して、ほめたたえながら」、この礼拝の場から、新しい人生へと、ここから出て行きましょう。アーメン。


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2014/06/01(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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