津田沼教会 牧師のメッセージ
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「みもとへのみ子の帰還」(ヨハネ14:1-14)
ヨハネ14:1-14、2014年5月18、復活後第4主日(典礼色―白―)、使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙一2:4-10
 
ヨハネによる福音書14:1-14

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父ももとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いまから、あなたがたは父を知る。いや、既に
父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


説教「みもとへのみ子の帰還」(ヨハネ14:1-14)

喜ばしい復活節も、終わり近くになりました。主の復活を祝うこの時に、ヨハネ福音書14:1-14が与えられています。これは、13:30から17章まで、さらには、18:3まで続く告別説教と言われている部分の1節です。
13:30でユダが出て行った夜、そして、ユダがユダヤ人たちを連れ、松明をかざしてやって来る夜、18:3によって、はさまれた、11弟子たちに語りかける家の中での光にあふれた、しかし、外は闇の、イエスの講話、説教からなっています。
ヨハネ福音書14章1節から6節は、葬儀においてもよく読まれるテキストです。
 父のみもとへのみ子の帰還にかかわる主イエスの説教です。主は、「あなた方は心騒がすな、父なる神を信じ、また、私を信じなさい」と弟子たちに語りかけます。
ゲッセマネの祈りにおいては、御自分も、苦い杯を飲む時が近づき、心騒ぐ時を経ていました。弟子たちもその主のあとに従って苦難の道を行く時がすぐ後に迫っています。
それに先立って、主イエスは、弟子たちに、前もって、心騒がすなと用意をさせているのです。
 「私は、あなた方のために場所を用意しに行く」と言われ、み国、父のもとには多くの住む場所がある。そうでなければ、私が行って戻って来ると言っただろうか。場所を用意したら、必ずあなた方のところに戻って来ると言われました。
 そして、「あなた方は、私がどこへ行くのか、その道を知っている」と言われました。しかし、あの疑い深いディドモ、二重性という意味のあだ名を持っていた、信仰の強さと鈍さを同時に併せ持っていた、トマスは、「主よ、あなたがどこへいくのか私たちには分かりません。どうして、それを知ることができましょうか」、と尋ねます。
 主は、「私は、道であり、真理であり、命であると言われ、私を通ってでなければ、父のみもとに行くことはできない」と言われました。真理であり、命である主イエスという道を通ってでなければ、その十字架と復活と高挙・昇天の道を通ってでなければ、救いに達することはできないと言われるのです。
 私たちはよく、富士山に登るにも多くの道があると言ったりします。しかし、主イエスは、御自分をこの世界に遣わした父なる神のみもとに行く道は、私を通してしか、他にはないと断言されます。
 次に、フィリポは、「主よ、御父を示して下さい。そうすれば満足します」と要求します。主は、「こんなに長い間、あなたは、私と共にいるのに、父が分からないのか。私を見た者は、御父を見たのだ」と、諭されます。
 「あなたは、私が父におり、父が私において、おられることを信じないのか」と問われるのです。
そして、「私がしゃべっているのは、自分からではなく、父が私においておられて語っておられるのだ」と言われます。そして、「よくよく言っておくが、私へと信じる者は、私が行っているわざを行うであろう、いや、それらよりももっと大きなわざを行うであろう、なぜなら、私が父に向かって進むからである。あなた方が私の名において、要求することは、何でも私がなすであろう、それによって、父が栄光をお受けになるためである」と、言われ、「何か、私の名において、あなた方が私に要求するならば、私がそれをなすであろう」と、約束しておられます。
 私たち、後に残される弟子たちが、主イエスにあって一つとなることを、主イエスは求めておられます。主が父のみもとへと出発なさる今日の日の御言葉を、思い起こしながら、復活節を歩んでいきましょう。アーメン。
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2014/05/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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