津田沼教会 牧師のメッセージ
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「見ないでも信じる私たち」(ヨハネ20:24-31)
ヨハネ20:24-29、2014年5月4日、復活後第2主日(典礼色―白―)、使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21
 
ヨハネによる福音書20:24-29
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。




説教「見ないでも信じる私たち」(ヨハネ20:24-31)

 今日の第1の朗読、使徒言行録2:36-47は、ペンテコステの出来事、聖霊降臨の日において、ペトロが主の死と復活の出来事を、旧約聖書の預言の成就として、大胆に証言し、その日のうちに、3000人もの人々が洗礼を受けた事実を記しています。そして、彼らは、相互の交わり、コイノニアを深め、パン裂きに集まり、すべての物を共有していたと、既に教会が誕生していたことを知らせています。
 また、第2の朗読、ペトロの手紙一1:17-21は、あなた方は先祖伝来の空しい生活から、金銀によってではなく、キリストの尊い血によって贖われたと諭し、この地上に仮住まいする間、人それぞれの行いに応じて、公平に裁かれる方、父を畏れて生活すべきですと説き、死者の中からキリストを復活させた神にあなた方の信仰と希望とはかかっていると励ましています。
 そして、今日は先週に続くヨハネ福音書20:24から20:29が、福音として与えられていますが、私は、変更テキストとして20章の終りまで、すなわち、30、31節までを選ばせていただきました。
 これら、3つの聖書日課は、それぞれ復活節を祝うのにふさわしい記事であると思います。
さて、今日の福音、ヨハネ20:24-31について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
これは、先週に続く記事です。先週は、私どもは、月曜日から木曜日まで、2年に一度の全国教師会と全国総会が、新大久保駅近くにあります百年記念東京教会で開催されました。1985年頃には、185名ほどいた牧師の数も、現在では88名ほどに半減しています。
 懐かしい顔に久しぶりに出会い、私個人としても殆ど20年ぶりに挨拶を交わしたりする人もいて、月日のたつのの速いことを改めて感じさせられましたが、同じ信仰に立つ兄弟姉妹として、信仰が強められ、新たな決意を秘めて帰って来ました。
 さて、今日のヨハネ福音書は、この後に、21章が残されていますが、これは後代の付加、加筆だと一般に考えられています。
 ですから、今日、お読みした部分は、ヨハネ福音書の結論の記事なのです。先週は、イースターの日の夕方の出来事でありました。主イエスがユダヤ人たちを恐れて、戸にみな鍵がかかっているときに、それを超えて、弟子たちのところへやって来られ、その真中に立って「平和があなた方にあるように」と語りかけたのであります。
 その主に出会ったことを、その時なぜかいなかったディドモと呼ばれるトマスに、彼らは語るのですが、トマスは言います。「私は、彼の両手の釘跡を見なければ、そして、そこに指を入れてみなければ、また、そのわき腹の傷跡に手をあててみなければ、決して信じない」と。
 そして、8日後に、すなわち、週の初めの日に弟子たちが家の内側におり、やはり戸にみな鍵をかけており、今度はトマスも一緒にいたときに、イエスがそれを通り越して、やって来られます。
復活の主は、私たちが捜すのではなく、その先にご自分の方から私たちのところにやって来て下さいます。鍵をかけた戸を通り越して、しかも、十字架の傷を残したまま、復活の体で、そして、イースターの夕方と同じく弟子たちの真ん中に立ち、「平和があなた方に」と語り始めます。主の日の礼拝の真ん中に、聖餐式の真ん中にこの主がお立ちになります。
恐れと疑いに捕われている私たちのところに、あるいは自信の欠如や心騒いでいる私たちの現実の中に、この世が与えることのできない真の平安を、復活の主はもたらして下さいます。
そして、トマスに言われるのです。「あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私のわき腹へと伸ばしなさい」と。そして「不信仰な者にならないで、信じる者になりなさい」と。
 トマスは、もともと熱心な弟子でありましたが、しかし、どこか鈍い性格の弟子であり、また、先の見通しを悲観的に、最悪に受け取ってしまうような、そういう二重性を抱えた弟子でありましたが、そのような個別的な一人物のもとに、ちょうどマグダラのマリアに復活の朝、墓から引き返すときに主が御自身を現わされたように、1週間後に、再び、復活の主ご自身から、やって来られたのであります。トマスは、私たちに似た、疑い深い、そしてその意味では親しさ、近さを覚える弟子であります。
 トマスは応えて、「私の主、私の神」と信仰告白をいたします。復活のイエスは、「主の主、王の王」なのであります。これは、ヨハネ福音書の、あのプロローグから始まった荘厳な「言(ことば)は、神であった」から続いて来た、「イエスはだれなのか」という問いへのピークを成す絶頂、頂点を示す言葉であります。私たちは、この方以外に、すなわち十字架と復活と高挙・昇天の、死から命へと神が栄光を顕わされた方以外に自分の主とし、わが神としてはならないのであります。この方こそが、全聖書が指し示して来た、私たちに永遠の命をもたらす方なのです。
 主は言われます。「あなたは私を見たから、信じたが、見ないで信じた者たちは幸いである。」私たちは、見ないで信じる弟子であり、主によって幸いな者と呼ばれている者なのです。
 ヨハネ福音書記者は、このトマスのエピソードでもって、本書の書かれた目的を記して、この聖書を語り終えています。そして、最後に彼はこう言います。「多くの他のしるしを、イエスは彼の弟子たちの前で行ったが、それらはこの聖書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子、メシアであると信じるためであり、あなた方がそう信じて、彼の名において命を持つようになるためである」と。
 ヨハネの黙示録も、ヨハネ福音書も、紀元後90年代以後に、特にヨハネ福音書はユダヤ人たち、殊にファリサイ派からの迫害の高まる中で、信者たちが、この主から離れないために、そして、死の絶望と罪の暗黒から救い出され、希望を持って歩み続けるために書かれた聖書であります。
 復活の主イエスは、今もなお、私たちと共にいて下さいます。世の初めからおられた方が、肉となってこの地に宿られ、苦しまれ、人の子となって、恵みと真理に満ち、十字架と復活、昇天を通して神の栄光を顕わされました。主イエスの十字架の死が、栄光だとは、復活の主にまみえるまで、とうてい、弟子たちは信じれませんでした。
「十字架の主は復活された」。それは、信じる者にとって希望の原点です。自分は、他の命によって生かされている。それを忘れるとき、私たちは傲慢になります。また、自分は、他の命を生かしている。それを忘れるとき、私たちは希望を失います。私たちもまた、主のために苦しむ道をも、兄弟を愛し、仕える道をも喜んで歩みたいと思います。5月の連休の中、近所の人々は体を休め、あるいは、家族の団欒を楽しんでいますがこの津田沼の地にも、復活の主の与えたもうまことの命と主の賜る平安を、そして罪からの贖いを、告げ広めるために、「見ないで信じる者は幸い」との復活の主のお言葉と共に出て行きましょう。
 
人知ではとうてい、測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2014/05/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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