津田沼教会 牧師のメッセージ
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「へりくだる王の入城」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2014年4月13日、枝の主日(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11
 
マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの山へ行きなさい。するとすぐ、ろばががつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


説教「へりくだる王の入城」(マタイ21:1-11)
 
今日はいよいよ枝の主日となりました。今日から聖週間、受難週が始まります。長かった四旬節もいよいよ終わりに迫って行きます。
 今日の第1の朗読は、ゼカリヤ書9:9-10であります。終わりの時にメシアが現れるときの預言であります。マタイは、これを福音記者の中ではただ一人、今日のエルサレム入城の記事の中に、少し解釈して、引用しています。それに、イザヤ書62:11も結び付けて引用しているのであります。「エルサレムの娘にあなた方は言え」と。これは、今日の記事の終わりの段落で、エリコから従っていた群衆が、エルサレムの全住人が、「この人はだれなのか」と聞いたときに、「彼は、ガリラヤのナザレ出身の預言者イエスだ」と言っていることによって、実現しているのであります。
マタイは、それに続けて、「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。彼は、柔和な方、へりくだる方であって、雌ろばと荷を負う子ろばに乗って」と、自由に解釈して、十字架に進む主イエスにふさわしい預言として受け取っています。ゼカリヤの預言にある勝利をもたらされる方などの言葉を削除して、この王は、柔和な王であり、雌ろばと子ろばに乗って来られる方で、しかも、マタイは「あなたのところに」来られる王であることを強調しているのであります。
 さて、今日の使徒書の朗読は、フィリピ2:6-11でありました。キリストは、神の身分でありながら、そこにとどまることをよしとしないで、人間のかたちを取り、死まで、十字架の死に至るまで、神のみ旨に従われたというのであります。
 私たちは、四旬節の間、この部分にあるキリスト讃歌を、毎週、福音書の前に歌って、十字架の死に至るまで、神に従順に従われた主イエスを思い起こしながら、歩んできたことを、改めて思い起こさせられます。
 さて、今日の福音は、マタイ21:1-11であります。マタイは、マルコ福音書を下敷きにしながらも、不必要なものは短縮して、無駄のない美しい文体に整えているのであります。
 毎年、アドベント第1主日と今日の枝の主日に、2回にわたって1年の教会暦のなかで、今日のエルサレム入城、勝利の入城の記事が読み直されるのであります。今日のこの福音の記事を、もう一度、思い起こしてみましょう。
 そして彼らは、エルサレムへと、オリーブ山のふもとのベトファゲへとやって来たとき、主イエスは、こうお語りになりながら、二人を遣わした」と今日の福音の記事は始まります。「向こうの村へとあなた方は出て行きなさい。」ベトファゲがエルサレムには、より近いのですが、その村とは、ベタニアの可能性もあります。
 「そこに行くと雌ろばとその子ろばがつないでいるのを見出すであろう。それを連れて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、彼らの主が必要を持っていると言いなさい。すると、彼は彼らを遣わすだろう」と、主は送り出します。
そして、先ほどの、引用聖書のゼカリヤ書9:9やその前に付け加えたイザヤ書62:11の預言の言葉が満たされることになったとマタイは、これにおいて旧約聖書が実現したことを強調するのであります。
 そして、二人は、主の言葉に信頼し、従順に出て行って、主が言われたとおりに、それらを連れて来るのであります。弟子たちが、前段の1節から8節までは、中心となって出て来ます。そして、荷を負う子ろば、飼い慣らされていない小さな者、低い者を主イエスはあえてお用いになりになり、軍馬ではなく、雌ろばと子ろばに乗ってお出でになる方であり、十字架につかれる王であり、ご自分が低くされた、へりくだりの王であることを、この入城において、示されるのであります。
 そして、後段のマタイ11:8から11までは、群衆が前面に出て来ます。これは、エルサレムの住民全体とは異なり、主イエスに喝采をあげる、エリコから付き従って来た群衆であります。彼らは、あるいは、その道において、彼らの服を広げ敷き、あるいは木から枝を切って、その道に敷いて、主イエスの前を行く群衆も、後に従う者たちも、喜び叫んでいました。
「ホサナ、ダビデの子に、主のみ名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにおいて、ホサナ」
主イエスが都に入ると、その都全体は、揺すぶられ、こう語るのです。「この人はだれか。」群衆は、「この人こそ、ガリラヤのナザレ出身の預言者イエスだ」と語っていました。この群衆も、この後、主イエスが十字架に付けられるとき、いつしか消え去っています。
 彼らは、主イエスに好意的ではありましたが、そのお方が、十字架につく「へりくだりの王」であり、全エルサレムが不安になったメシアであることは理解していませんでした。
 私たちは、今日この日から、エルサレムにおける主のご受難を覚える聖週間を迎えます。
その方が、どこまでも、父なる神のご意志に従われ、私たちのために苦しみに会うメシアであることを、今日のこのエルサレムへの2匹のろば、雌ろばと子ろばを用いての低くされた王の入城を通して、示されたことを今一度思い起こしながら、この受難週を過ごしていきましょう。アーメン。
 



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2014/04/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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