津田沼教会 牧師のメッセージ
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「マルタのキリスト告白」(ヨハネ11:17-53)
ヨハネ11:17-53、2014年4月6日、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5
 
ヨハネ福音書11:17-53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアがこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わあつぃの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。


説教「マルタのキリスト告白」(ヨハネ11:17-53)

いよいよ、四旬節も終わりに迫って来ました。世の中も、めまぐるしく移り変わって行きます。この主の十字架を思うべき悔い改めの時にも、そして、おのおのの洗礼を思い起こすべきときにも、しばしば、悪魔の誘惑に遭い、倒れこんでしまう弱い自分を感じさせられます。
しかし、私たちは、この時にも、日曜日には主の日として、主の御言葉、福音のもとに集まられますこと、また、聖餐に与れますことを、心より嬉しく思います。特に牧師は、いかように苦しいことがありましても、日曜日には、御言葉との格闘があり、神の言葉を取り次ぐ幸いを与えられていることを感謝させられます。
 さて、今日の第1の朗読は、エゼキエル書から与えられています。正しい人もその正しさに頼って悪を犯すならば、死ななければならない。また、悪人も立ち帰って、悔い改め正しい行いに帰るならば、罪に定められることはないというのであります(エゼキエル33章10節-16節)。
また、第2の朗読は、ロマ書5章1節-5節でありました。信仰によって義とされている私たちにも、苦難があり、それは、忍耐を生みだし、忍耐は、練達を生みだす。そして、聖霊によって、練達は希望を生みだすというのであります。
さて、今日の福音は、ヨハネ11章17節から53節といつになく長い日課が与えられています。ラザロの復活といいましょうか、むしろ、蘇生、生き返りでありますが、共観福音書にはない奇跡の出来事、しかも、ヨハネ福音書においては、最後の奇跡として記されているのであります。そして、これが、きっかけになって、ヨハネ福音書では、主イエスが十字架に導かれるという出来事となっているのであります。
病気のラザロが死にます。しかし、それは、神の栄光があらわれるためであると聖書は記します。主イエスが、ベタニアの近くに来たとき、ラザロが死んで既に四日もたっていました。主イエスを迎えに来たマルタは、あなたがここにいらしてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに、と言いますが、しかし、今でもあなたが神にお願いになることはなんでも、神はその通りにして下さると信じていますと、言うと、主は、私は復活であり、命である、私へと信じる者は死んでも生きる。もはや、決して死ぬことはないとまで、言われ、このことを信じるかと尋ねられたマルタは、はい、信じました、あなたは、メシア、神の子、世に来られるべきその方であると告白するのであります。
そして、死んだラザロの墓へ行き、嘆いている者、ユダヤ人たちを見て心に憤りを覚え、自らを揺すぶられ、興奮して、泣かれ、石をどけなさい、と命じられ、ラザロよ、出て来なさいと大声をあげます。すると、死人は、包帯を巻かれたまま、顔の覆いをつけたまま、出て来ます。主イエスは、それに先立って墓の石をとりのけよと言われ、死人は墓からそのまま出て来ます。
私たちの心の闇、妬みや、憎しみもとりのけられ、新しい光が私たちの罪と闇を照らしだします。これが、主イエスの十字架の死による罪の赦し、贖いです。この出来事を通して、主イエスは世に広がる教会の民を一つになさるために、死ぬことになっていたのであります。
その年の大祭司であったカヤファは、そのことを自分からではなく、預言して言っていたのであります。あなた方は、一人の人がその国民のために代わって死ぬ方が益であるとは考えないのかと。そして、知らずに預言していたこのカヤファの言葉は、全世界に散らばっている教会の新しい民を、主イエスの十字架の死が一つに集めることになることを預言していたのであります。
今日のこの四旬節第5主日のラザロの死からの起き上がりという奇跡は、主イエスが死者に命を与えることによって、御自分の命を失うことになる逆説を教えるものであります。
そしてこの日、私たちは、死と命を隔てている墓から出て来るように、主イエスによって呼ばれている者であります。私たちは何度も何度も罪に陥りやすく、み言葉から離れやすい弱い者であります。けれども、墓の外には、主イエスが待っておられ、そのような私たちを自由にして出て行くようにすると主は約束されているのであります。
主イエスはこのあと、十字架に上がることによって、神の栄光を現されます。ご自身の肉体を十字架にかけることによって、私たちの罪の贖いをなしとげられ、世に来たるべき神の子、メシアであることを示されたのであります。四旬節の残りの日々も、この主イエスの受難と死と復活を仰ぎ見ながら、マルタと共に、この方こそ罪から解き放つキリストと告白する者となさせていただきましょう。アーメン。
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2014/04/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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