津田沼教会 牧師のメッセージ
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「渇きをいやされて」(ヨハネ4:5-26)
ヨハネ4:5-26、2014年3月23日、四旬節第3主日(典礼色―紫―)、出エジプト記17:1-7、ローマの信徒への手紙4:17b-25
 
ヨハネ福音書4:5-26
 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


説教「渇きをいやされて」(ヨハネ4:5-26)

四旬節の第3主日の今日は、マタイ福音書からいったん離れて、本日を含めて3回、枝の主日に入るまで、ヨハネ福音書から、福音が与えられています。
今日の第1の朗読は、出エジプト記17章1節から7節でした。それは、出エジプトの荒れ野の40年間の間の出来事で、水に渇いたイスラエルの民がマサ(試し)とメリバ(争い)において、モーセに対してつぶやき、また、主がおられるのか、試みた出来事でした。
また、第2の朗読のロマ書4章17b-25は、アブラハムが死者に命を与える神を信じたという信仰を取り出し、私たちが主イエスを死者の中から復活させたと信じるならば、だれでも、その信仰によって義と認められる、また、主イエスは私たちの罪のために死に、義とされるために復活されたと言っています。
では、どうして、本日の福音、ヨハネ4:5-26が、この四旬節にふさわしい福音として与えられているのでしょうか。ちなみに、次週はヨハネ福音書から主イエスの奇跡によって生まれつきの盲人が視力を得るという記事が与えられ、その次は、同じくヨハネ福音書から、ラザロの復活をめぐる、それに伴う長い記事が与えられています。
さて、今日の出来事では、一人のサマリアの女性、シカルの女の人が、ユダヤ人の主イエスに出会い、次第次第に心が解かれていき、主イエスをついにはメシア、キリストと呼ばれる方として信じるに至る出会い、対話が記されています。
 今も、世界ではロシアとウクライナが主権を争い、また、日本も日韓関係で冷え切った政府間となっています。主イエスの時代も、ユダヤ人とサマリア人とがもともと同じイスラエル人であったにもかかわらず、同じ食事の容器は互いに用いないという犬猿の仲になっていました。しかし、主イエスは、神の計画に従って、このサマリアを通って、ガリラヤへと帰って行くこと、そしてこの女性と出会うことになると神によって定められていたのです。
 シカルというヤコブがヨセフに与えた場所の近くに主イエスは、お出でになり、旅の疲れから、ヤコブの井戸の上の方に座っておられました。時は、正午頃、シカルから、サマリア人の女性が水をくみにやってきます。普通、女たちが水をくみに来るのは朝夕のことでした。しかし、弟子たちは町に出ており、暑い盛りの正午頃やって来たことにより、主イエスとの出会いが起こったのです。
主は、いきなり出会ったときに、「私に飲むことを与えなさい」と言われます。女の人は、なぜ、ユダヤ人の男であるあなたが、サマリア人の女である私に飲ませてくださいと言われるのかと答えます。
逃げ出したりせず、この女性は強い性格の持ち主であったことが窺がえます。主は、「あなたが神の賜物、神の救いを知っていて、水を飲ませて下さいと言った者がだれであるかを、知っていたら、自分からあなたは要求し、そして彼はあなたに生きている水を与えたであろうに」と言われます。
女は、「主よ、この井戸は深いのです、そしてあなたはくむ物をお持ちでないのに、どこから生きた水をくむのですか」と、次第に心を開いていきます。主は、「この井戸から水をのむ者は、また、渇く、しかし、私が与える水からのむ者は永遠に渇かず、その者の内で永遠の命へとあふれる水の泉が成るであろう」と言われました。そして、彼女は、「私がここにまたくみに来なくていいように、その水を下さい」と言うのであります。
 そして、主はその対話が深まって行ったピークの時に、いきなり、「あなたの夫を行って呼んで来なさい」と話を変えられます。女は、「私は夫を持っていません」と答えると主は、「あなたは正しく答えた、あなたは5人の夫を持っていたが、今あなたが持っているのは、夫ではない」と言われます。女は、「主よ、あなたはあの預言者だとお見受けします」と答えます。
 そして、父なる神への礼拝の問題へと心を移していきます。「私たちの父祖は、この丘、ゲリジム山で礼拝したが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言っています」と。主は、「あなた方は、知っていないものを礼拝している」と、あるいはその女の5人の夫、すなわちサマリア人たちが5つの偶像崇拝をしていたことを、主イエスは暗示していたでしょう、「しかし、私たちは知っているもの、神を礼拝している、救いは、ユダヤ人から来るからだ」と答えられ、「もはやこの場所でもなく、エルサレム神殿においてでもなく、父を霊と真実において礼拝すべき時が来る、いや今既に来ている」と言われます。私たちの礼拝は、霊と真理においてなされるものでなければならない、なぜなら、神は霊だからだと教えられるのであります。毎週の私たちの礼拝がそのような熱心なものになっているでしょうか。受難節の時、主イエスが十字架の死とその後の復活の勝利によって、霊とまことにおける礼拝を与えて下さったことを覚えたいものです。
女は、「私は、メシアと呼ばれる方が来て、すべてのことを私たちに知らせてくださることは、存じています」と言うと、主は、「私である、あなたにしゃべっている者がそれである」とご自分が、約束されたメシアであることを、稀なことにも、この敵対していたサマリアの-女性に証しされたのであります。
 この四旬節のとき、主イエスは十字架の死と復活において、罪人の私たちのために、お出でになられました。そして、その方は、身体的のみならず、魂においても永遠に渇くことのない命の水を与えて下さいます。もはや、渇くことのない命のみ言葉を、今日、私たちにも差し出してくださいます。
 四旬節のわが身の罪を思い起こすべき時でありますが、この良き訪れ、福音の喜びを隣人に届ける時でもありましょう。この後、この女の人がサマリアの村人たちのところに言って、宣べ伝えたように、私たちも罪の嘆き、魂の渇きをいやされて、今度は人々のなかへ、主イエスの十字架と復活の救いをのべつたえる者として遣わされて行きましょう。アーメン。


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2014/03/23(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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