津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「贖いによる救いの計画」(マタイ20:17-28)
マタイ20:17-28、2014年3月16日、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12
 
マタイ福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「贖いによる救いの計画」(マタイ20:17-28)

先週の月曜日には、東京教会で東地域の教師研修会があり、引退教職の石田順郎牧師が講演なさいました。先生はこの程、「神の元気を取り次ぐ教会」という説教集などから成る、言わば先生の遺言とも言えるような本をリトン社から、出版されました。
その講演の中で、先生は、ルーテル教会では、教会暦に従った聖書日課が、毎週与えられており、自分の人生を振り返ってみるに、ただ、ただ恵みのみだ、感謝のみだとルーテル教会のすばらしさを説いておられました。
 確かに、私たちも毎週味わっていますように、日曜日には、それぞれ、聖書日課が与えられ、今日も創世記のアブラハムへの主なる神の祝福すなわち、イスラエルの民の救いの計画の始まり、また、ローマ書の信仰によって義とされるという個所が与えられています。
それら伝統的なものは、大体は、ローマ・カトリック教会の日課に従っていますが、ところどころでは、ルーテル独自の日課である場合もあります。
マルティン・ルターは、カトリック教会の伝統のうちで生かせるものは、なるべく生かそうとしましたが、それが、今のルーテル教会にも続いていると思います。
さて、今日は、四旬節第2主日として、マタイ20:17-28に飛んでいます。先週のマタイ4章の荒れ野での3つの誘惑の記事に続いて、今日は、主イエスの第3回受難予告および復活予告が与えられています。これは、共観福音書にそろって出て来るものですが、マタイは、独自に構成しています。
 主イエスは、エルサレムへと上っていかれとき、12弟子を道の途中で、連れ出し、彼らだけに言われるのであります。
見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。人の子は、律法学者たちや祭司長たちに渡され、彼らは、彼に死を宣告するだろう。そして、彼らは、異邦人に引き渡すであろう、それは、彼ら、異邦人が彼をあざけり、鞭打ち、十字架につけるためであり、そして、人の子は、三日目に起き上がらされるであろうと予告なさってのであります。
十字架におかかりになるのが、神の救いの計画であり、み子、そして、苦難に遭われる人の子の道、すなわちイザヤ書の42章に出て来る低く、十字架の死に至るまでみ旨に従われる苦難のしもべの道を主は、黙々と歩まれるのであります。
 ところが、まさに「その時」ゼベダイの子らの母が進み出て、ひれ伏し、何かを願おうとするのです。マタイは、12弟子の中でも内弟子のヤコブとヨハネ兄弟の尊厳を傷つけまいとして、その子らの母に進み出させたのでしょう。
主が何を求めているのかと聞かれると、サロメはあなたのみ国において、息子らの一人をあなたの右に、一人を左にと願い出たのであります。あなたのみ国、すなわち、よりによって、教会において、自分たちの栄光の席を求めるのであります。
主は、二人に、あなた方は私が飲む杯を飲むことができるかと言われます。二人は、その苦難を十分に理解しないまま、できますと答えます。旧約聖書において、杯は神の怒りや裁きや報復を意味しました。主イエスは、後に、ゲッセマネの祈りで、父なる神に、私の杯を過ぎ去らせて下さいと祈りますが、そこでは、文字通り、自分に迫っている十字架上の死を意味していました。
さて、ヤコブは、ヘロデの手にかかって、殉教し、ヨハネも伝説では苦難を受けますが、この時には、それらのことはまだ何も分かってはいなかったでしょう。
しかし、主は、み国において私の右、左に、だれがつくかは、父によって備えられた者にのみ与えられることだと言われます。
 他の10人はこれを聞いて立腹しますが、主は言われます。あなた方が承知している通り、異邦人の世界、すなわち、特にローマ帝国においては、大きい者たちが彼らを支配し、権力者たちが、彼らの上に圧政を強いているが、あなた方の間ではそうであってはならない。むしろ、大きく成りたい者は、あなた方のディアコノスとなり、第1になることを欲する者は、あなた方の僕となりなさい、と言われるのであります。
 教会でも、地位を巡っての争いがあり、牧師仲間でも自分の優劣を巡っての競争があります。しかし、教会では、仕える者が、あなた方の内で大きい者であり、しもべとなる者が、第1であり、先の者と、主イエスによって、示されているのであります。
 そして、最後に、ちょうどそれは、人の子、私が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者たちの代わりに、その命を与えるためであるのと同じようにと、主イエスは言われているのであります。
 苦難の僕が、多くの者たち、それは、すべての者たちを意味するのですが、その者たちのために、その命を身代金として与えるという思想は、既にイザヤ書53章に預言されています。
 この四旬節の第2の主日に、私たちは、十字架におかかりになる主ご自身の第3予告を福音として与えられているのであります。
 主イエスの十字架への道行きを覚えながら、また、父なる神の深い贖いによる救いの計画に思いをはせながら、この受難節をご一緒に歩んでまいりましょう。アーメン。

スポンサーサイト
2014/03/16(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。