津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神の言葉に守られて」(マタイ4:1-11)
マタイ4:1-11、2014年3月9日、四旬節第1主日(典礼色―紫―)、創2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31
 
マタイ4:1-11
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


説教「神の言葉に守られて」(マタイ4:1-12)
今日与えられている福音は、マタイ福音書4章1節から11節です。私たちは、先週の聖灰水曜日の礼拝の時から、四旬節、受難節を迎えています。聖卓の色は、紫色に変わっています。これは、悔い改めを表わす色であり、また、主イエスが十字架にかかったとき着せられた緋色の衣の色でもあり、また、主イエスのその十字架上の血潮を表わす色でもあります。
 私たちは、分かっていながら、罪を繰り返し犯します。私も、受難節に入る前の大切なときにも、人に言えないような罪を犯し、倒れてしまいました。
しかし、私たちは、日曜日には、この受難節の時も、神の福音を聞くために、教会に集められ、洗礼と聖餐を思い起こし、説教を聞くように、喜びの知らせが与えられているのです。
 今日は、主が、洗礼を受け、「これは私の愛する子」とのの父なる神よりの声がし、聖霊がくだったあと、それに続く出来事であります。
 「その時」、と今日の記事は始まります。その霊が、彼を荒れ野へと導き上り、40日40夜、彼は断食していたのです。この40という数字は、出エジプトのイスラエルの民が、荒れ野で過ごした40年を象徴しています。
 聖なる民は、しかし、荒れ野の試みで、ことごとく、敗北して罪を犯していくのです。しかし、主イエスはどうでしょうか。
 40日がたったとき、悪魔がやって来て、誘惑します。あなたは神の子なのだから、この石に命じてパンになれと言いなさいと。
主イエスは、必ず、神の御言葉、旧約聖書の言葉を用いて、悪魔を退け、打ち勝つことができたのであります。
 第1の誘惑、試みに対しては、主イエスは、申命記の言葉を取り出します。人は、パンだけの上に生きないであろう、そうではなく、神の口から出るすべての言葉の上に生きるであろう存在であると、まず引用されます。
 3つの誘惑、試み、いずれに対しても、申命記の言葉によって、悪魔に打ち勝っていかれるのです。出エジプトの民、神の子とも呼ばれるイスラエルの民は、荒れ野での40年間、試練に遭い、試みに負け、敗北してしまいます。
 私たちは、今始まっている日曜日を除く40日間の受難節の間、同じように、言わば、この世の荒れ野での試みに遭います。旧約のイスラエルの民は、つぶやき、敗北してしまいますが、新約の神の子、主イエスは、悪魔の誘惑に打ち勝ち、ことごとく勝利して行かれるのであります。生活手段としてのパンに、荒れ野の石どもを変えることによってではなく、神のあらゆるみ言葉を通して、我々は生きるべきものであるとの申命記の言葉によって、主イエスは第1の誘惑から守られて歩まれるのであります。
 私たちも、主イエスに学び従いながら、神の言葉に守られて、受難節を過ごしていきたいものであります。
 さて、第2の誘惑で、悪魔、ディアボロスは、主イエスを聖なる都に連れて行きます。そして、彼をその神殿の頂上に立たせて、言うのであります。あなたは神の子なのだから、その身を下に投じなさい。なぜなら、こう書かれているからである。彼、神がその天使たちに命じるであろう、彼らがその手であなたを持ちあげる、あなたは、足を石に打ちつけることはないであろうと。
 今度は、悪魔も詩編91編の言葉、メシアへの神の加護について記された言葉を、賢しらに指し示してくるのです。主イエスは、さらに、主なる神を試してはならないとも書いてあると申命記の言葉を用いて、悪魔の誘惑を退けます。人々があっと驚くような魔術的なしるしを用いるのは、真のメシアの取るべき道ではないことを、主イエスは教えています。
 マタイが、この福音書を書いた時代は、熱心党が暗躍していた時代でもありました。しかし、マタイの教会の人々は、この第2の誘惑に主イエスが対処なさったように、熱心党の過激な運動によって、奇跡を行うメシアを期待する道には随従しなかったのであります。 
 第3に、また、彼を悪魔は非常に高い山に連れて行きます。そこには、主イエスをモーセと対比するマタイ福音書の主題がありましょう。モーセは、約束の地を見渡すネボ山に立たされ、はるかカナンの地を仰ぎ見たのですが、主イエスは、全世界の王国とその繁栄を見せられます。
 そして、悪魔は、今度はあなたがひれ伏し拝むなら、これらすべてをあなたに与えようと、命令ではなくて、甘い約束を出して来るのであります。
 「その時」主イエスは、彼にお語りになるのであります。退け、サタン、ただ神を拝み、神のみに仕えよと書いてあると、サタンへの命令と共に、ここでも申命記を引用して、サタンの試みを打ち砕かれるのであります。
 後に、ペトロが、フィリポ・カイザリアで「あなたは、生ける神の子、キリストです」と信仰告白しますが、それに続いて、主イエスが御自分の十字架の死と復活を予告なさった時、ペトロが、主イエスを脇に連れて行って、そんなことがあってはなりませんと言ったとき、主イエスは、ペトロに「サタン、私の後ろに引き下がれ」と叱りつける場面が出て来ます。
 この第3の誘惑でも、サタンが、主イエスに父なる神以外の神々や偶像崇拝に導く、すなわち自分をひれ伏し拝むならという誘惑に対して、主イエスは、徹頭徹尾、申命記を引用してサタンの誘惑を撃退しておられるのであります。
 出エジプトの民は、40年の荒れ野の旅において、偶像崇拝に陥ってしまい、主なる神への信頼とその配剤への従順からそれてしまいました。
 しかし、主イエスは、サタンの誘惑であった政治的世界支配の理想に自らをまかせることなく、十字架の贖いによる人類の救いの道、父なる神のご意志とご計画にあくまでも従順に従われました。
 「その時」悪魔は、彼を離れるのである、そして、見よ、天使たちがやって来た、そして、彼に仕えていたと、あります。天使たちが主イエスの食事の準備をし、また、助け、力づけていたのであります。
 主イエスは、宣教をお始めになる前に、サタンの誘惑に打ち勝ち、また、これから、始まる宣教の中で、サタンの試練に出会って行くのでありますが、私たちのこれからの受難節の歩みに先立って、悪魔の試みに既に勝利されているのであります。
 現代の荒れ野の誘惑とは、何でありましょうか。東日本大震災から3年たとうとしています。その先の見えない復興の問題、故郷に帰れない人々や解決の見込みがつかない問題などもそうであるでしょう。
 しかし、私たちの罪と死と闇の問題を、主イエスは、既に「荒れ野の40日」の誘惑を通して既に解決して勝利なさり、敗北した旧約のイスラエルの民とは違って、父なる神への信頼と従順をまっとうして、私たちの歩むべき道を備えていてくださいます。
 私たちもまた、主イエスに従って、神の口から出るすべての言葉に守られて、この四旬節の時を、主イエスの十字架の道に従って歩みたいと思います。アーメン。
スポンサーサイト
2014/03/09(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。