ヨハネ8:31〜38、2005・10・30、宗教改革主日(教会暦の色―赤―)
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19−28
ヨハネによる福音書8章31節〜36節
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
「真理は自由にする」(ヨハネ8:31〜36)
本日は宗教改革主日であります。これは、1517年10月31日、すなわち、全聖徒の日である11月1日の前日に、当事ローマ・カトリック教会のアウグスチヌス修道会の修道士であったマルチン・ルターがヴィッテンブルクの城教会の門扉に、95カ条の提題を掲げたことによって、それが全ヨーロッパに広がることになったことを覚えての本日の礼拝であります。それは、よく知られていますように、当時の免罪符で父母や先祖の救いが得られるというローマ・カトリック教会の動向などに反対したものであります。それから更に、聖書には書かれていないとして、マリア崇拝や聖人崇拝などにもルターは、反対したのであります。
しかし、彼は、当時のカトリック教会を出る意志はなかったのでありますが、宗教改革の火がこのことを通して、ヨーロッパに広がっていき、カトリック教会から破門されることになるのであります。そして、ルターを中心とする宗教改革は、信仰のみによって義とされるというふうにローマ書の1:17を解釈し、それらはパウロの再発見というふうにも捉えられています。
わたしたちは、信仰のみによって、義とされるというルターの解釈を耳にたこができるほど聞かされて、信仰生活を送っているものであります。信仰のみによって神の前に義とされるということは、なぜそういうふうに繰り返され、他のことによって取り替えられないかというと、それは、私たちには、行いをもって、すぐに、自分のわざとして、誇ることが起こるからではないかと私は考えます。そしてしかし、そのことは、わたしたちの行いがどうでもよいということではありません。
ややもすれば、実際には生活がルーズになったりしがちでありますが、ルター自身が「良い行いについて」という著作を当時並行して出していることでも、良い行いが大切でないということではないことが、ルターの本意であることがわかります。
しかし、繰り返しますが、現実の信仰生活を振り返りますと、信仰と行いとの間に大きな緊張関係と言いましょうか、ギャップが生まれやすいことも、わが身を省みて認めなければなりません。
さて、本日の福音では、イエスの言葉を聞いて信じたユダヤ人たちに、イエスは、本日の箇所のお言葉を語っているのであります。「真理はあなたがたを自由にする」と、主は言われます。そして、罪を行うものは、罪の奴隷であるといわれます。イエス・キリストが、わたしたちの闇と死を、すなわち罪を取り除くためにお出でになられました。このイエス・キリストにおいて、わたしたちは死から命へと移されています。
それは、科学だとか、人間の理性で得ることができると信じられているような一般的真理を、主イエスが示しておられるのではありません。
さて、ユダヤ人たちは、自分たちはかつて、奴隷になったことはないと反論します。エジプトで奴隷になったことや、バビロン捕囚などの敵国によって奴隷とされたことはありましたが、ユダヤ人たちは、霊的な自由を失ったことはないと自負していたのであります。けれども、主イエス・キリストが神から来られ、命をもたらすお方であることを否定するもの、この神のご意志に従順に従わないものは、罪を行うものであります。
ルターは言いました、わたしたちは、罪の奴隷であるか、神のしもべであるか、そのいずれかであり、中立はありえないのであります。馬車の御者は、神であるか、さもなくば、サタンでしかないとルターは表現しています。
そしてこの自由を与えられた信仰者として、「わたしたちは、すべてのものの上に自由な王である、かつ、すべてのもの、すべての隣人に仕えるしもべである」のであります。わたしたちは、時として罪に陥りますが、みことばにすぐに立ち返って、日ごとに、悔い改めの生涯をここから再びはじめようではありませんか。アーメン。
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19−28
ヨハネによる福音書8章31節〜36節
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
「真理は自由にする」(ヨハネ8:31〜36)
本日は宗教改革主日であります。これは、1517年10月31日、すなわち、全聖徒の日である11月1日の前日に、当事ローマ・カトリック教会のアウグスチヌス修道会の修道士であったマルチン・ルターがヴィッテンブルクの城教会の門扉に、95カ条の提題を掲げたことによって、それが全ヨーロッパに広がることになったことを覚えての本日の礼拝であります。それは、よく知られていますように、当時の免罪符で父母や先祖の救いが得られるというローマ・カトリック教会の動向などに反対したものであります。それから更に、聖書には書かれていないとして、マリア崇拝や聖人崇拝などにもルターは、反対したのであります。
しかし、彼は、当時のカトリック教会を出る意志はなかったのでありますが、宗教改革の火がこのことを通して、ヨーロッパに広がっていき、カトリック教会から破門されることになるのであります。そして、ルターを中心とする宗教改革は、信仰のみによって義とされるというふうにローマ書の1:17を解釈し、それらはパウロの再発見というふうにも捉えられています。
わたしたちは、信仰のみによって、義とされるというルターの解釈を耳にたこができるほど聞かされて、信仰生活を送っているものであります。信仰のみによって神の前に義とされるということは、なぜそういうふうに繰り返され、他のことによって取り替えられないかというと、それは、私たちには、行いをもって、すぐに、自分のわざとして、誇ることが起こるからではないかと私は考えます。そしてしかし、そのことは、わたしたちの行いがどうでもよいということではありません。
ややもすれば、実際には生活がルーズになったりしがちでありますが、ルター自身が「良い行いについて」という著作を当時並行して出していることでも、良い行いが大切でないということではないことが、ルターの本意であることがわかります。
しかし、繰り返しますが、現実の信仰生活を振り返りますと、信仰と行いとの間に大きな緊張関係と言いましょうか、ギャップが生まれやすいことも、わが身を省みて認めなければなりません。
さて、本日の福音では、イエスの言葉を聞いて信じたユダヤ人たちに、イエスは、本日の箇所のお言葉を語っているのであります。「真理はあなたがたを自由にする」と、主は言われます。そして、罪を行うものは、罪の奴隷であるといわれます。イエス・キリストが、わたしたちの闇と死を、すなわち罪を取り除くためにお出でになられました。このイエス・キリストにおいて、わたしたちは死から命へと移されています。
それは、科学だとか、人間の理性で得ることができると信じられているような一般的真理を、主イエスが示しておられるのではありません。
さて、ユダヤ人たちは、自分たちはかつて、奴隷になったことはないと反論します。エジプトで奴隷になったことや、バビロン捕囚などの敵国によって奴隷とされたことはありましたが、ユダヤ人たちは、霊的な自由を失ったことはないと自負していたのであります。けれども、主イエス・キリストが神から来られ、命をもたらすお方であることを否定するもの、この神のご意志に従順に従わないものは、罪を行うものであります。
ルターは言いました、わたしたちは、罪の奴隷であるか、神のしもべであるか、そのいずれかであり、中立はありえないのであります。馬車の御者は、神であるか、さもなくば、サタンでしかないとルターは表現しています。
そしてこの自由を与えられた信仰者として、「わたしたちは、すべてのものの上に自由な王である、かつ、すべてのもの、すべての隣人に仕えるしもべである」のであります。わたしたちは、時として罪に陥りますが、みことばにすぐに立ち返って、日ごとに、悔い改めの生涯をここから再びはじめようではありませんか。アーメン。
2005/10/30(日) 10:30:01| 未分類|
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