津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「隣人とは誰か」(マタイ5:38-48)内海望牧師
マタイ5:38-48、2014年2月16日、顕現節第7主日(典礼色―緑―)、レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙一3:10-23
 
マタイ5:38-48
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


説教「隣人とは誰か」(マタイ5:38-48)内海望牧師

日課に入る前に、「山上の説教」と呼ばれるマタイ5章から7章の読み方について考えてみます。この箇所は、私自身を含め説教者を長い間苦しめてきたところです。
かつて、この箇所は、「山上の垂訓」と呼ばれ倫理道徳的な意味(理想主義、律法主義)で読まれてきました。多くの文学者も感動して「新しき村」運動なども起こりましたが、結局は人間の現実の前に、挫折しました。また多くの人々がここを読んで「キリスト教は厳しい」と言って聖書から離れて行きました。他方で、「これは努力目標だ」として気楽に考えるクリスチャンもいます。読み飛ばすのです。それではどのように読めばよいのでしょうか。
何より大切なのは、この説教がイエスさまが群衆をご覧になって(愛の眼差しを注がれて)、お話しになったということです。イエスさまが群衆に近づかれたという点が大切です。すなわち、パウロが言うように、イエスさまは神と等しい身分を捨て、自分を無にして、人間に仕える僕とし、慈しみをもって話しかけられていらっしゃる点に目を向けたいと思います。群衆のひとりひとりに新しい命を与えるためには、ご自分の十字架の死さえも覚悟して今、人々に話しかけられていらっしゃるのです。このイエスさまの姿勢を見逃してはいけないと思います。裁きでなく、この説教は福音が語られているのです。
そのように考えると、この「山上の説教」は全く新しい光景を帯びて来るのではないでしょうか。イエスさまは、決して厳しい倫理を押し付けるのではなく、また、群衆を突き放すためでなく、ただひたすらに集まって来た人々のことを思い、彼らを新しい命に生かすために近づかれたのです。
しかし、それにしても、厳しい言葉が並びます。これは私たち人間すべてに求められている生き方です。私たちは、これを無視することはゆるされません。
今日の日課に目を向けてみます。43節以下には「隣人愛」について語っていらっしゃいます。これは、今日の第一の日課であるレビ記からの引用です。このように「隣人愛」という言葉は昔からあったのです。決してキリスト教の専売特許ではありません。
ところが、イエスさまは、ここでずばり「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことが「隣人愛」だとおっしゃるのです。これは、当時人々が「人類愛」と考えていた内容に対する挑戦あるいは批判です。問題は、律法学者がイエスさまに質問したように、「隣人とは誰か」という点にあります(ルカ10章)。
人間は、何でも自分に都合がよいように解釈します。神さまの律法さえ自分勝手に歪めます。当時の律法学者たちは、「隣人」とは「選ばれた民。即ち自分たちユダヤ人」と考えていました。従って、ユダヤ人以外は異邦人であるとして軽蔑し、一切交わりを持ちませんでした。それどころか、敵視していました。このような態度が、ついには、むごたらしい民族間の紛争、殺戮、戦争にまで至ることさえあることは、私たちが現代社会において痛みとして経験しているところです。イエスさまが、レビ記からの引用に際し、律法の内容を「隣人を愛し、敵を憎め」とされたのは実体に即しているといえましょう。恐ろしいことに、当時の人々は「隣人を愛する」という素晴らしい律法を、自分たちに都合がよいように歪め、「差別」「憎しみ」を生み、ついには「殺し合い」を促すようにしてしまっていたのです。イエスさまはこの事態を見抜いていらっしゃるのです。イエスさまが、「敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい」とおっしゃるのはまさにこの人間の歪曲に対する「否」なのです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか」と怒りを込めておっしゃるのは当然です。
しかし、私たちも律法学者また当時のユダヤ人を笑うことは出来ません。「人間は全人類を愛することは出来るが、隣りの人を愛することは出来ない」という皮肉な言葉がありますが、まさにそうです。私たちは、身内の人々、隣近所の人々の中に、どうしても愛せない人、いや目も合わせたくない憎らしい人々がいることを告白しなくてはなりません。敵を愛するどころか、右の頬を打たれたら、やり返すことしか考えない人間なのです(38節)。
このようにイエスさまに迫られると、日常生活の様々な場面が心によみがえり、私たちの心は暗澹としてきます。「あんなことを言うべきでなかった」「・・・すべきでなかった」あるいは「ひとこと声をかけるべきだった」など悔恨の情が心に湧き上がって来ます。
繰り返しますが、イエスさまが、「怒りを込めて」と申しました。確かにそうです。イエスさまは、このような人間の現実に怒っておられるのです。神さまの命令である「隣人愛」 をこのように歪めてしまった私たちに対して怒っておられるのです。
私たちは、このイエスさまの怒りにどう対処すればよいのでしょうか。ただうなだれて黙するのみでしょうか。あるいは、多くの人々と共に「そんなに厳しく言われても」と一歩身を引いてしまうのでしょうか。

私たちは、「悔い改め」という言葉を知っています。これは、「悔恨の情」とは全く違います。
「人生は、悔恨の情の塊だ」と語った作家がいますが、確かにそのように思える時があります。しかし、「悔恨の情」というのは、自分が自分を振り返ってみた時に起こる感情です。自分で自分を反省することですから、それは解決のつかない堂々巡りになり、暗い思い出だけが澱のように残るだけです。
「悔い改め」というのは、神さまの前で自分の姿が明らかにされた時に起こるものです。私たちは徹底的に打ち砕かれます。しかし、自分が自分を振り返る悔恨の情と違って、神さまの前での罪人である自己の発見ですから、私たちはただ、「私は滅ぶべき罪人です。それでも、私を憐れんでください」と神さまに必死に祈り求めるしかありません。そうしなければ、私は滅んでしまうのです。ルターは、『ペトロのように、「主よ、私から離れて下さい」と言うべきでなく、神の憐れみに信頼して祈りの中に飛び込み、「主よ、私はこの通り全くの罪人ですから、私を憐れんでください」と祈るべきだと言い、更に「私たちの心は真実に罪を感じているから、いっそう祈りを通して神に近寄らなければならない」』と私たちを励ましています。まさに、「神さまに抗して神さまに近づく」という姿勢です。これが悔い改めなのです。その時、私たちは、パウロと共に、「聖霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さる」という聖霊の助けも経験することが出来るでしょう(ローマ8章26節)。
まさにその時、私たちは、赦しの神さまがイエスさまを通して、私たちに近づいて下さっているということを知ることが出来るでしょう。イエスさまが僕として、十字架にまで下って、「父よ、彼らをお赦し下さい」と私たちのために祈って下さる十字架のイエスさまに出会うことが出来るのです。「どうしてお前たちは死んでよかろうか」と憐れみに満ちた言葉をかけて下さる神さまの愛を知ることが出来るのです。イエスさまは、私たちを担って「敵を愛せ」という「山上の説教」の道を歩み切って下さった方なのです。
ここで注意したいことがあります。それは、「私たちが悔い改めたから、その報いとして赦された」のではないということです。「罪の認識は功績」ではありません。イエスさまの十字架は、私たちが悔い改めたかどうかと関係なく、すべての人間に与えられた恵みです。
しかし、「神に抗し、神に近づくこと」によって私たちは「愛の神」に出会うことが出来る
のです。
 更に大きな恵みがあります。イエスさまは十字架と死から復活されました。それによって罪と死に対する勝利を収められました。そして、私たちにも新しい命に生きる力を与えて下さるのです。「悔恨の情」は、私たちの心を沈めたままで終わります。しかし、「悔い改め」は私たちに新しい復活の命を生きる喜びへと私たちを導きます。「改め」の意味がここにあります。
 金持ちとラザロのたとえを思い出します。金持ちは、ラザロに何か悪いことをしたわけではありません。彼は自分のことしか考えていなかったので、門前で死にかかっているラザロが見えなかったのです。イエスさまの十字架の死と復活によって新しい命へと召された者には、今まで見えなかった人間の痛みが見えるようになります。イエス・キリストの愛がその力を与えて下さるのです。
 「自分は全人類を愛することができないが、目の前に倒れている人がいるなら見過ごしにすまい、と言う決意で生きている」という飯沼二郎先生の文章が心に残っています。問題は、目の前に倒れている人が見えるかどうかということなのです。その眼を開かせてくれるのが、イエスさまの罪人(敵対する者)をも愛する赦しの愛なのです。私たちは、この愛に捉えられているのです。この事態をパウロは、「キリストの愛、我らに迫れり」「駆り立てる」(コリント二5章14節)と表現しています。イエスさまの愛が、「どうしても愛したい」という情熱を私たちに与えてくれるのです。
 今日からは、うじうじと自分を暗い思いで見つめる生き方から、イエスさまの復活の命に与る者として、喜びのうちに生きて行きましょう。罪と死に打ち勝たれたイエスさまが
共に歩んで下さいます。


スポンサーサイト
2014/02/16(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。