津田沼教会 牧師のメッセージ
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「良い行い」(マタイ5:13-16)
マタイ5:13-16、2014年2月2日、顕現節第5主日(典礼色―緑―聖餐式)、イザヤ書58:1-10、コリントの信徒への手紙一2:1-5
 


マタイによる福音書5章13節~16節
 
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」




説教「良き行い」(マタイ5:13-16)

主イエスは、あなた方は、地の塩、世の光であると言われています。このあなた方というのは、キリストの招きに従って、迫害にあうことをも辞せず、キリストの証人として応じ、歩んでいる小さな群れである弟子たち、私たちすべてのキリスト者を指しています。
主は、あなた方は、いつか地の塩になるであろうとか、世の光になるであろうとか、言ってはおられず、今の状態のままで、あなた方は既に、地の塩であり、世の光であると断言されています。私たちの努力や功績によってではなく、主イエスによって、既にそのような存在として私たちは、この世界に置かれているのであります。
地の塩、世の光というのも、考えてみれば不思議な言葉です。それは、この地上世界の人々にとっての塩であり、また、光であるという意味です。
塩は、香辛料としての働きがあります。「あの人は、味のある牧師だ」などと表現する場合もあります。食塩は、自分自身を溶け込ませ、自分を媒介として、自分自身はなくして食材に風味をそえるのです。料理においては、必要不可欠なものであります。また、塩は防腐剤としてとか、保存の役目とか、イスラエルでは神との契約に用いられたりもしました。
地の塩である私たちが、その塩味をなくしたら、塩気をなくしたなら、これは、塩が馬鹿になるという言葉ですが、そうなったら、人々によって、外に放りだされ、投げ捨てられて、踏みにじられる以外に何の役にたとうか、と主は言われます。地の塩の働きを、私たちが、なくしてしまい、世の人々の希望となり、光となることをやめてしまったなら、私たちの存在価値は何もなくなってしまう、人々から捨てられるだけだと、主は、私たちがその本来の塩気をなくしては、もともこもなくなると、ここでは私たちを脅かすことすらなさっています。
塩化ナトリウムとしての塩は、本来、塩気をなくすることはないとのことですが、死海で取れ、売り買いされた当時の食塩、岩塩は、湿気を多分に含むことによって外界物と混じり合い、使い物にならなくなることがよくあったということです。
私たちは、主のみ言葉から、離れるとき、人々から、無用の長物とされることを、体験的に知っています。
また、主イエスは、あなた方は、世の光である。山の上にある町は、隠されていることができないとも言われました。ナザレも、エルサレムも、山の上に造られた町で、周りから知られずにいることはできない構造になっていました。この世界にあって、弟子たちは、それと同じように、人々から隠されていることはできない者たちであると、主イエスは明言されます。
そして、あなた方の光を人々の前に輝かしなさいと言われます。しかし、私たち自身が、光の源なのではなく、異邦人のガリラヤに昇った光であるキリストの光を私たちが受けて、その私たちの光が、人間どもの前に、輝やきなさいと主は言われるのであります。人々がともし火を、つけて、すぐに、升の下に置いて、消すようなことはせず、燭台へと置いて、家の中のものすべてを照らすようにすると、主は言われます。
あなた方は、この世界へと出て行って、愛の奉仕をし、また、神の国、神の愛を宣べ伝えることを通して、そのすべての民を弟子とするように努めなさい、と言われ、私たちが、まことの光である主イエスの証人であることを人々に知らしめよと言われるのです。
このようにして、あなた方の光が人々の前で輝きなさいと主は言われます。そして、それは、あなた方の立派な行いを見て、人々が、ついには天にいますあなた方の父に栄光を帰するようになるためであると言われます。主イエスは、私たち、主イエスによって、選ばれ、招かれた、小さな群れである弟子たち一人一人の良い行い、立派な生活を通して、その光の出所がどこから来ているのかを、人々が知るようになるためであると言われるのであります。
主イエスは、塩が、その本来の役割を失ったり、光がその本来の働きを、果たさなければ意味がないように、キリスト者もその本来の使命を忘れれば、無意味な存在になることを教えられました。そして、この個所の後に、キリスト者の良き行いとして、私たちが取るべきふるまい、律法学者やファリサイ派にまさる私たちの義なる行為、あり方を説いていかれるのであります。アーメン。


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2014/02/02(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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