津田沼教会 牧師のメッセージ
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「暗闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
マタイ4:12-17、2014年1月19日、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、アモス書3:1-8、コリントの信徒への手紙一1:10-17、
 
マタイ4:12-17
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
  異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



説教「暗闇に座す者にのぼる光」(マタイ4:12-17)
 
 顕現節、それは、神の子、主イエス・キリストが、この世に顕われたことを覚える教会暦の季節であります。今日のところでは、主イエスが、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、すなわち、神の御計画のもと、ヘロデ・アンティパスの手へと引き渡された後、主イエスがガリラヤに退かれて、先駆者ヨハネのあとを継ぎ、神の国の接近にともなう第一声をあげるという場面展開を記しているのが、今日の福音書の個所であります。
 主は、育った故郷ナザレを去って、ルカ福音書では、故郷で迫害にあって、カファルナウムと言う湖岸の港町に、定住なさるのであります。
 ガリラヤ一帯は、ヘロデ・アンティパスの領域でもありました。しかしまだ、宣教の始めの頃は、身の危険を覚えるようなことはない場所であったのでありましょう。
 そして、それは、旧約聖書によっても、メシア、神の救いの光が、ガリラヤの地にのぼることが、今日の福音の中にも、引用されていると、マタイは断言します。
 それは、イザヤ書の記事にあります。8章の23節から9章の1節です。
「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤは預言しています。
 マタイは、ユダヤ民族が選ばれた神の民であり、旧約聖書が、イエス・キリストによって成就されたという立場が強い福音書記者でありますが、イザヤ書のここに、異邦人にも救いの光が、ガリラヤの地、海沿いの地に、のぼると書いているではないかと、異邦人の多かったガリラヤから、メシアが現れることは、神の御計画であったことを、今日の記事において、はっきりとその読者たちに伝えたかったのではないでしょうか。
 「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者の上に」光が射し込んだとあるのを、マタイは、「闇の中に座している者たち」「死と陰の地にうずくまっている者たちに」光、すなわち、メシアの到来による救いがもたらされると、解釈して引用しているのです。
 カン・サンジュン氏は、熊本出身の方で、今年の4月から聖学院大学の学長をつとめるとキリスト新聞に載っていましたが、最近の著作に「心」というのがあります。夏目漱石の小説「心」にちなんだ作品です。ある男子大学生が、ある意味では、主人公で、その親友のあまりにも若すぎる、病に冒されての不条理な死に直面して、カン先生とメールのやり取りが始まる。2011年3月11日の東日本大震災の災害、原子力発電所の事故も背景となり、今の若者たち、大学生の恋や、新鮮なものの見方が、作者カン先生の鋭い感性を通して描かれ、現代日本を生きている人々の実態に、鋭いメスを入れて展開されていきます。
 若くして亡くなった親友の短い人生は、無意味だったのか。それを、ご自分の息子さんの自死に遭遇し、生きる意味について洞察されたカン先生の深い苦しみと共に、考察されています。
 現在の日本社会はどこに向かって進んでいるのでしょうか。人の命は、短くても、それぞれに尊い価値があることを知らされます。
 今日の「暗闇に座す者たちに光が」のぼったというのは、私たちの現実ではないでしょうか。キリスト・イエスがいなければ、私たちの人生は、方向を見失って、暗闇の中にうずくまって、絶望するしかない空しい人生となってしまうのではないでしょうか。
 長い世界の歴史の流れの中にあっては、私たちの人生はたとえ長寿をまっとうできたとしても、1瞬のものにしか過ぎません。
 罪の中でうずくまるしかない空しいものではないでしょうか。しかし、聖書を貫く創造主なる神は、そのような私たちをそのまま見捨ててはおかれませんでした。異邦人のガリラヤと言われた海沿いの地、カファルナウムに主イエスが第一声をあげて、私たちに神の支配が近づいていることを、宣言されるのであります。
 私たちももう一度、この闇に座り込んでいる私たちの現実生活の中へと、主イエスが、神のもとから派遣されて、光となって下さっていることを思い起こし、希望と喜びの人生へと、新たな一歩を踏み出していきましょう。アーメン。






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2014/01/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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