津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスに従う群れの幸い」(マタイ4:18-25)
マタイ4:18-25、2014年1月26日、顕現節第4主日(典礼色―緑―)、イザヤ書43:10.-13、コリントの信徒への手紙一1:26-31、
 
マタイ4:18-25
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。



説教「主イエスに従う群れの幸い」(マタイ4:18-25)

今日は、津田沼教会の総会の日であります。そして、それにふさわしい福音書の記事が与えられています。マタイ福音書の4章の18節から、25節であります。最初の弟子たちの召命であります。そして、それに続く主イエスの働きの開始と、当時の人々の反響が記されています。
マタイも、マルコも、ルカも、そして、ヨハネ福音書も、いずれも、最初の弟子たちの召命の記事を、それらの福音書の始め近くに、記しています。いったいどの記事が、史実に1番忠実であるのか、それは、分かりません。
しかし、それぞれの福音書記者たちが、それぞれの見方で、微妙に異なる記事を残しているのであります。
今日は、そのうちのマタイ福音書から、聞いていきましょう。先週与えられていた福音書の個所、マタイ福音書4章12節から17節では、主イエスは、ガリラヤにお戻りになって、カファルナウムに定住して、宣教をお始めになりました。その第1声は、「あなた方は、悔い改めよ。なぜなら、天の王国、神の支配が近づいたから」というのです。私たちが努力するから、神の国が近づくのではなく、神の国がそこまで来ているので、私たちは悔い改めることが必要だし、そうすることができるのであります。
さて、それに続く今日の出来事は、こういうものでした。主イエスは、ガリラヤの海に沿って、歩き回っておられた。そのとき、ペトロとその兄弟アンデレが、網を投げているのに、目を留められた。そして、彼らに言います。私のあとについて来なさい。そうすれば、私は、あなた方を、人間どもへの漁師たちにするであろうと。
人間どもへの漁師たちとは、私たちの新共同訳聖書では、人間を取る漁師と訳されています。これを聞いたときの、ペトロたちの驚きはどんなに大きかったことでしょうか。自分たちは、魚を取る漁師を生業としている。ところが、このお方は、私どもを、人間を取る漁師にしようと言われる。
確かに、旧約聖書でも、エレミヤ書などには、「私は、多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」といった人間どもへの裁きを意味する表現が見られます(エレミヤ書16章16節)。
しかし、主イエスの言葉は、人間を裁くために、ペトロたちを召し出すのではありません。人を、神の支配の中へと導き招くための召命であります。私たちは、イエス・キリスト、すなわち、「メシアの証人」へと召されるのであります。
彼らは、すぐに、網をあとに残して、彼に従ったと記されています。
私たちも、自分たちが有能だから、いろいろな賜物に秀でているから、主イエスに従ったのではありません。主イエスによって、選ばれて、すべての他のものを、あとにおいて、従って来た一人一人であります。
また、主は、進んで行かれると、今度は、舟の中で、網を父と共に繕っているヤコブとヨハネに目を留められます。そして、彼らを呼ぶと、その二人の兄弟も、舟や父をあとに残して、すぐに従います。エリヤがエリシャを弟子としたときは、エリシャはまずそれに際して、親にいとまごいを願い出て許されました。しかし、主イエスの弟子たち、彼の証人となる者は、まずは、父を葬りに行かせてください、と言っても、主は、死人のことは、死人たちにまかせておくがよいといって、私たちの即座の随従をお求めになるのであります。
このように、主イエスの弟子たち、主イエスによって、人間どもを神の支配へと導く漁師へと招かれ、それに喜んで従ったのであります。
私たちも、この多難な時代に、人々を、キリストへと、み国の福音、良き知らせへと招くべく、選ばれたことを、この日、もう一度、思い起こしましょう。
そして、主イエスは、ガリラヤ中を、歩き回って、彼らの会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、病気のありとあらゆる種類の患いから、病人を、み国の到来のしるしとして、癒されていました。むやみに、やたらに、主イエスは大勢の人をだれもかも癒されたわけではないのです。
さて、私たちも、その主の働きを広めるべく、選び出された者です。そして、主イエスは悪霊つき、癲癇、中風の者といった当時、解決し難い難病とされていた人たちの中から、み国の福音のしるしとして、そのような人々を、ご自分がメシアであることを示すために、癒されたのであります。
そして、シリヤ中に、その良き聞こえは出て生き、近隣のデカポリス一帯からからも、特に、ユダヤ人たちが多かったでしょうが、異邦人にも救いがあることを示す記事が、マタイの手によって記されています。
「英語で聖書を読む会」に1年以上、来ている方がいますが、そして、今、エレミヤ書を読んでいるのですが、その方は、聖書の教え、そして、キリスト教は、他の宗教を認めない厳しい教えだと新しく来た人の質問に答えて言っておられました。旧約聖書を学んでいますので、やむを得ない面もありますが、私は反論して説得させようとはしませんでした。旧約聖書の底においても、異邦人のための神の救いも含まれていることを、伝えたいところでしたが、やはり、エレミヤ書の神学、あるいは総論をもっと深く研究しておく必要を感じました。
主イエスの教え、そして、全聖書の教えは、異邦人の世界にも、すなわち、全世界の人々の救いを教えるものであることを、本日の後半の個所からも垣間見ることができます。
私たちは、この日本社会へ、キリストの証人として、主イエスに従って行く群れとされているのであります。主イエスの証人となるべく、主イエスによって召し出された、その幸いを、そしてそれは、そのために担わねばならない苦労を超えた喜びであることをを、この津田沼教会の総会礼拝のこの日から、共々に分かち合いながら歩んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。






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2014/01/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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