津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスが洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)
マタイ3:13-17、2014・01・12、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38
 
マタイ3:13-17
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。




説教「主イエスが洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)

今日は、「主の洗礼日」の礼拝です。より強いお方である主イエスが洗礼を、その先駆者、洗礼者ヨハネから、お受けになったという事実は、3つの共観福音書が、また、ヨハネ福音書も暗に伝えていることであります。そして、それぞれの福音書において、その同じ出来事が、微妙な相違を示しながら、記されているのであります。
私たちは、今年は、マタイ福音書から、主として、その福音を聞くことが、与えられています。マタイ福音書の伝える「主イエスの洗礼」の出来事を、重点的にしばらくご一緒に考えたいと思います。
今日与えられているマタイ福音書の記事は、マタイ福音書3章13節から、17節までであります。今日の記事は、その時、主イエスはガリラヤから、ヨハネによって洗礼を受けるためにヨルダン川の彼のもとへと到来する、という言葉で始まっています。既に私たちは、主イエスがガリラヤのナザレでお育ちになったことを聞かされています。
そして、マタイは、特に、主イエスが、既に集まって来ていた群衆たちと同じように、洗礼者ヨハネから、洗礼を受ける目的で、ヨルダン川の岸辺にやって来られたと、まず、明記しているのであります。
洗礼者ヨハネは、自分は悔い改めの洗礼を授けているが、私より後に来られる、私よりもはるかに強いお方が、火と聖霊によって洗礼をお授けになると、本日の記事の前の部分で宣言しています。
それなのに、なぜ、その主イエスが、洗礼者ヨハネのもとに来て、彼によって洗礼をお受けになったのか、お受けにならなければならなかったのか。それは、当時のマタイの教会の人々にとって、また、マタイ福音書の読者たちにとって、見逃すことのできない大きな問いとなっていたのであります。
洗礼者ヨハネは、主イエスに、次のように語りながら、何とか彼が洗礼を受けるのを回避させようと試みていたのであります。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべき必要を持っています。そして、あなたが私に向かってやって来られるのですか。」
主イエスは、それに対して、こうお答えになるのであります。「今は、あなたは許してほしい。なぜなら、このようにすべての義が、私たちに成就するのは、適切なことだから」と。この「義」という言葉は、マタイ福音書では非常に重要な鍵言葉であります。また、主イエスの言われる「私たち」がだれを意味するのかも考えられなければなりません。神の義なのか、人間の「義」なのか。「私たち」というのは、主イエスとヨハネのことなのか、それとも、そこに一緒に集まっていた群衆をも含むのか。「義」という言葉は、神との間での義という場合、救いとか、主イエスに対する信仰を意味します。義のために迫害される人々は幸いであると言われる場合などであります。人の間での「義」という場合は、憐れみや施しを意味したりもします。
ここでは、「私たち」というのは、一緒に集まっていた人々をも含み、また、「義」、正しいことというのは、人間の神に対する従順なふるまいと考えられるのであります。主イエスは、私たち、共に集まって来ている民衆の身になって、「すべての義を成就する」すなわち、徹底的に神の意志に従順な人間の側のふるまいをなさることを、ヨハネから洗礼をお受けになることを通して、実現なさろうとしたのであります。
「そこで、彼は、彼を許した」、とあります。
主イエスは、ヨハネから、洗礼をお受けになり、すぐ、水から上がられると、見よ、天が開かれ、神の霊が、鳩のように降るのを、そして、御自分に向かってやって来るのを御覧になります。
この受洗の場所、ヨルダン川は、昔、ヨシュアが、出エジプトの時、イスラエルの民が約束の地イスラエルに入るときに、奇跡的にその水が堰止められて、民が渡ることができた場所でありました。また、天が開かれるというのは、エゼキエルがバビロンのユーフラテス川で見た啓示でもありました。そして、神の霊が鳩のように降り、御自分の方にやって来るとは、創世記の天地創造のときに、神の霊が水の面を漂っていたという記述を思い起こさせます。また、鳩は、聖霊を表わすと共に、イスラエルの民の象徴でもありました。
主イエスの洗礼の時、まず、目に見える形で、主イエスに起こったことを記し、それから、耳に聞こえる形で起こったことを、マタイは、次のように記しています。
そして、見よ、天からこう語る声があった、すなわち、「これは、私の子、愛する者、彼を私は喜んでいる」と。この天からの啓示の言葉は、主の変貌のときの言葉と殆ど同じであります。
マタイは、客観的に、天からの声をそこにいたヨハネと、民衆に聞かれた言葉として、「あなたは」ではなく、「これは」「彼を」と記しています。
この天からの言葉は、イザヤ書42章1節の言葉、「彼は、私の愛する僕、私は彼を支え、私は彼を喜びとする」という主の僕についての言葉と、詩編2編7節の「あなたは、私の子、私は今日あなたを産んだ」という言葉が合わさった言葉であります。
主イエスは、苦難の僕であり、苦しむメシアであります。また、彼は、御自分の子であることを、神は、この主イエスの洗礼の時に、天から啓示なさったのであります。
主イエスの公生涯の始まりのときに、これらの出来事が起こったのであります。私たちは、折しも、2014年の始まりの時に、この主イエスの洗礼の出来事を読んで、これからの1年間の歩みを始めようとしています。
私たちも、主イエスの洗礼をお受けになった出来事を、思い起こしますときに、自分たちがそれぞれに受けた洗礼の出来事を思い出させられるものであります。しかし、それは、パウロも言うように、主イエスの死に与る洗礼であります。
私たちと、特に日本の社会、風土を考え合わせますときに、周囲の人々とを区別する1つの大きなメルクマールは、洗礼を受けているか否かであります。
先日も、「英語で聖書を読む会」に通い始めた方が、先生はどうして洗礼を受けたのですか、御家庭がクリスチャンの家庭なのですか、と素朴な、そしてもっともな質問を帰りがけになさいました。
洗礼は、決して私たちクリスチャンの特権というようなものではありません。主イエスが、洗礼をお受けになったのは、「私たちに、すべての義が成就する」ためでありました。洗礼を受けて、私たちは、それぞれの十字架を担い、主イエスのあとについて行くように招かれた者であります。
それは、「キリストの死に与る」ものであり、私たちは、洗礼を受けることにより、それぞれに与えられている人生の重荷を生涯引き受けていくのであります。しかし、そこにしかない、変えることのできない大きな喜びと慰めをも体験している者であります。
それを、周囲の大多数のまだ洗礼を受けていない人々に伝えるために、主イエスが、マタイ福音書の終わりにおいて言われているように、私たちは全世界に、この日本での周囲の私たちの家庭や友人たち、社会の中へと遣わされているのであります。
この1年間、津田沼教会の歩みが、今日の日の出来事である主イエスの洗礼に従って行く歩みとなりますように、この1年の初めに心から祈る者であります。アーメン。

人知では測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




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2014/01/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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