津田沼教会 牧師のメッセージ
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「マリアの賛歌」(ルカ1:46-55)
ルカ1:46-55、2013・12・22、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29

ルカによる福音書1:46-55
 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
  わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、
  わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


説教「マリアの賛歌」(ルカ1:46-55)

 今日は、待降節第4主日を迎え、同時に、津田沼教会では、クリスマスを一足早く祝う日曜日をも兼ねています。
 アドベント・クランツの灯火も、すべてともされ、そして、明後日の24日のイブ礼拝の夜から、教会暦の正式な意味でのクリスマス、降誕節のシーズンが、その日没の時から、来年の1月6日(月)の顕現日まで続くのであります。
 主イエスのご降誕を待ち望む、あるいは、終末の時に再びお出でになる主イエスの再臨を、悔い改めながら待ち望むべき待降節を私たちは、ここまで、教会暦の始まりであった12月1日の日曜日から、過ごしてまいりました。
 さて、今日与えられている福音は、マリアの賛歌と呼ばれ、あるいは、その書き出しのラテン語の聖書から、マグニフィカートととも呼ばれて親しまれてきた個所であります。
 このマリアの歌った賛歌は、先ほど教会讃美歌14番でも歌いましたように、古来、何度も変えられながら、作詞作曲されながら、歌い続けて来られた教会の大切な宝のような聖書の部分をなしており、言わば、旧約聖書、新約聖書、全聖書の要約とも言っていいような、マリアの力強い信仰を言い表わした言葉から成っています。
 最初の部分は、マリア個人に対して、救い主である神がなさった大いなるみ業を、マリアが受け入れ、信じて、告白したものであり、後半は、更により一般的に、私たち教会に属する者に関わる言葉から成っています。
 マリアは、み子の受胎告知を受けたとき、戸惑いながらも、ついには、主よ、私はあなたのはしためです、お言葉どおり、この身に成りますようにと、神のみ使いのお告げを受け入れたのです。
 そして、ユダヤの山里に、親戚のエリサベトを急いで訪ね、み使いのお告げを確認するためにやって来たのであります。
 そして、エリサベトの祝福を受けて、その応答として、歌い語ったのがこのマグニフィカートであります。マグニフィカートとは、私は、(主なる神を)拡大するという意味であります。こんなに勇壮な歌を、14、5歳であったであろう田舎娘のマリアが本当に歌うことができたのだろうか、と疑問も起こります。そして、これは、エリサベトが言ったとなっているラテン語写本もあるくらいです。
 確かに第1朗読で読まれたサムエル記上のハンナの祈りから取られている言葉や部分が少なくありません。しかし、これは、ハンナの祈りをはるかに超えている歌であります。
 わが魂は、主をあがめ、拡大する。私の魂は、救い主である神を喜び、踊る。すなわち、全身全霊で、神をほめたたえるというのであります。
 なぜなら、自分のような低い者に目を留めてくださったからと、マリアは歌います。世々の人々は、私を祝福された者だと言うでしょうと、自分自身に働きかけて下さった神をほめたたえ、私はあがめると断言するのです。
 そして、後半では、より広く、一般的に、新しいイスラエル、新しいアブラハムである私たち教会について預言して歌うのです。
 神は低き者を高く上げ、高ぶる者、心の思いの傲慢な者をその高き座から引きづり降ろされる。空腹な者を良きもので満腹にさせ、富める者を、空しい手のまま追い払われると歌います。終末的な歌であります。そのとき、低き者は高くされ、高い者は低くされると、マリアは、み子の受胎を受けて、エリサベトに応答して、語るのであります。
 その時から、2000年経った現代、技術や知恵は大いに進歩しました。しかし、その中で私たちはかえって、さまざまな人間破壊や自然破壊に直面しています。
 クリスマスを前にして、私たちは、マリアの歌によって、救い主の誕生をどのように祝うのか、新しいイスラエルとしての教会に対して、父なる神は慈しみをとこしえに、忘れられないとマリアは歌います。
  神のみ旨にかなった教会であるように、私たちは、御子の誕生を迎え待つ者として、目を見開きたいものであります。アーメン。

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2013/12/22(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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