津田沼教会 牧師のメッセージ
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「羊飼いたちへの訪れ」(ルカ2:1-20)
ルカ2:1--20、12・24、降誕祭(前夜)(典礼色―白―)、イザヤ書9:1-6、テトスへの手紙2:11-14


ルカ2:1-20
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝させた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天への大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


説教「羊飼いたちへの訪れ」(ルカ2:1-20)
 
皆さん、クリスマス、おめでとうございます。教会で用いる教会暦の色、典礼色も、教会暦の1年の始まり、すなわち新年であります、今年は12月1日の日曜日から始まったアドベント、待降節の紫から、ご覧の通り、今日の日没より白に変わりました。1日はユダヤ人たちにとっては、創世記にありますように、すなわち天地創造のときに夕べがあり、朝があったとありますように、日没から始まって、次の日の日没までが1日なのです。12月24日、今夕の日没から、明日25日の日没までがクリスマスの第1日目、いわゆるクリスマス、降誕日であり、クリスマスの季節、シーズン、降誕節は、今夕から来年の1月6日(月)の顕現日まで14日間続くのであります。これは、長い歴史の変遷の後、キリスト教の西方教会、東方教会の双方の話し合いを経てこのように守られるようになったものであります。
 さて、今日は、最初のクリスマス、すなわちキリストの礼拝、キリストのミサ、聖餐式の出来事とも言えます日であります。奏での杜に住んでおられる若いお母さんからメールで小2と年長さんの子供がいるのだが、適当なキリスト教のミサはありませんかと問い合わせがありましたので、このクリスマス・イブ礼拝を勧めました。そのキリスト誕生の日の出来事の意味を、皆さんとしばらくご一緒に考えたいと思います。
 今ほど、お読みしましたように、救い主、イエス・キリストの誕生の次第は、ルカ福音書の2章1節から20節までに、非常に簡潔に、そして、ルカの手によって、抑制的に構成されて記されています。すなわち、2章の1節から7節までと、8節から14節まで、そして15節から20節までの3つの部分とその展開に分けられるのであります。
 最初の部分では、ルカは、登場人物のだれにも声を出させていません。そのころに、すなわち、それらの日々において、皇帝アウグストから、全領土に、すなわち、全世界に人口調査をするようにと、勅令、命令が出ていきます。これは、もちろん、ローマ帝国の住民から税を取り立てるためのものでした。そして、それは、シリアの総督がクリニウスであるときのパレスチナでの最初の住民登録でありました。そして、ユダヤの男たちも、おのおのその出身地にそのために向かっていたというのであります。主イエスの父となりますヨセフも、言い名付けのマリアを連れて、ダビデの家とその家族の出である故に、ダビデの町、ベツレヘムへと、北のガリラヤのナザレといの村から、進んでおりましたが、マリアは妊娠していたのであります。
 ところが、そこで、生まれるべき日々が満ちて、マリアは、男の子を、初めての子を、産み、布切れでその子を包み、飼い葉桶の中に寝かせたのであります。宿舎には、彼らのための場所がなかったからであると、ルカは記しております。ヨセフがそれほど裕福でなく、むしろ貧しかったことが窺われます。
 さて、第2の部分は、その時、ベツレヘムの地方の死海に向かってくだった、今でもその場所だと言われる場所が残っている、「羊飼いの野」というあたりで、羊飼いたちが、野宿をし、群れの番を夜通ししていたという場面に移ります。その時、突然、天使が彼らのそばに立ち、そしてまた、彼らの周りを主の栄光が照らし、彼らは、大きな恐れを恐れさせられました。そして、天使はこう言うのであります。恐れることはない、なぜなら、見よ、私は、大きな喜びをあなた方に告げるからである、それは、民全体にとってそうなるものである。すなわち、今日、あなた方に救い主が生まれた。その方こそ、ベツレヘムにおけるキリスト、主である。そして、これが、そのしるしである、すなわち、あなた方は、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを見いだすであろう、と。
 すると、突然、なったことには、天のおびただしい軍勢が、この天使と共に現れて、神を賛美しながら、こう語るのであります。「栄光が、いと高きところにおいて、神に。平和が、地の上に、神のご好意を受ける人間どもにある」と。
  このように、第2段落では、救い主誕生の知らせが、局外者、アウトサイダーであった、あるいは、見捨てられた者であった羊飼いたちに最初に知らされるのであります。しかも、その救い主のしるしとは、飼い葉桶に寝かされた布切れにくるまれたか弱い赤ちゃんだというのです。
 天使たちは賛美しました。栄光が、いと高きところにおいて、神にあると。私たちも先ほど、讃美歌「荒れ野の果てに」で同じように「グローリア、インエクセルシス、デオ」と歌いました。そして、また、天使たちは、平和が、真の平安が、地上において、神のご好意を受ける人々にあると断言するのであります。
 それは、ただ単に人間の側での善意の人々に、地上で平安があるというのではなく、み旨に適う人々、神のご好意にあずかる人々、このときの羊飼いたちのような神の側から選ばれた、神さまが喜ばれる人々に、この地上の困窮、悩みの絶えない中にあって、確かに平安と慰めが約束されているという天使たちの宣言の声であります。
 羊飼いたちへのこの良き知らせの訪れのメッセージは、神が、私たちと同じく貧しく、みじめな、しかも最も低い形での人間となって生まれてくださったという告知でありました。布切れにくるまれ、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんが、民全体に与えられる大きな喜びのしるしであることが、羊飼いたちに、この夜、最初に告げられたのであります。
 この救い主、イエス・キリストは、十字架の時に不面目な目にあわれたのみでなく、生まれる時から、そのような不面目な救い主としてお生まれになりました。
 そして最後に、第3段落では、そのような救いの啓示が与えられた羊飼いたちの取った応答とそれに対する人々の反応が記されています。
 天使たちが、彼らから去って行ったとき、羊飼いたちは、お互いに言い合っていました。さあ、私たちはベツレヘムまで行こうではないか、そして、主が知らせて下さった、出来事すなわち、言葉、もとの言葉はレーマという言葉ですが、それは出来事という意味と、言葉という意味と二つあります。それを見ようではないか、確かめようではないかというのであります。救い主誕生の出来事においては、不思議な奇跡らしい奇跡は何ら記されていないのですが、羊飼いたちは、天使のみ告げをその通り、信じるのであります。
 そして、彼らは、エリサベトのもとに急いだマリアと同じように、信じて、急いで出て行って、マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを探し当てたのであります。
そして、彼らは、自分たちに成った出来事・この子について語られた言葉・レーマを人々に知らせました。しかし、それを聞いたすべての人々は、ただ、羊飼いたちのしゃべったことを不思議に思ったとだけ聖書は記しています。彼らは、信じることができず、ただ驚き怪しむのみでありました。しかし、ただ一人マリアは、これらの成ったすべての出来事・言葉・レーマを熟考しながら、その心の中に蓄えていたとあります。この日成った、クリスマスの出来事・言葉・レーマは、信仰の目を通してしか、信じること、受け入れることのできないものであります。
 羊飼いたちは、彼らがしゃべられた通りに、聞き、また、見たそのすべてのことの上に、神に栄光を帰しながら、また賛美しながら、また、もとの羊飼いの野に引き返したのであります。
 私たちも、同じように、今日の救い主誕生の出来事に思いを巡らしながら、私たちの日常生活の中に、この礼拝から戻って行き、悩み多い私たちの人生の現実と罪の只中に、既に神が入って来られたこと、そしてその独り子が私たちと共に生涯の終わりの日まで共に歩んで下さることを信じて、ここから新しい一年を始めて行きたいものであります。アーメン。

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2013/12/24(火) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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