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津田沼教会 牧師のメッセージ
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「心を神に向けよう」(マタイ3:1-12)
マタイ3:1-12、2013・12・08、待降節第2主日(典礼色―紫―)、イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13

マタイによる福音書3:1-12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰の革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


説教「心を神に向けよう」(マタイ3:1-12)
 
私は、本日の待降節第2主日の福音説教の題を「心を神に向けよう」と付けました。それは、単なる自分の内側に向かっての反省、内省といったものではなく、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ」と言ったのは、天のおられる神の意志に、心を向け、全身全霊で来たるべき天の国、-マタイは、神を畏れて天の国と、神の国のことを言い換えたのですが、神の支配に、身をゆだねることを、主イエスの来臨に先駆けて、荒れ野で第一声をあげたからです。
旧約聖書では、終わりの巻となっているマラキ書に、終わりの日にあの預言者エリヤが再来すると預言されています。久しく出なかった預言者、しかも旧約最後の最大の預言者として、洗礼者ヨハネが、水で悔い改めの洗礼を人々に授けながら、荒れ野に登場したのです。
私たちは、特にこの待降節の時、キリストが王として来られるのを待ち望む時として、紫の典礼色を用い、これは、また、私たちが神に心を向けるべき悔い改めの色をも表しています。
私たちはどのように立派な人も、また信仰深い敬虔な人も、ルターも言いましたように、死ぬ時まで、日ごとに罪を犯し、神に背く存在であり続けます。ですから、洗礼は人生でただ一回きりのものでありますが、待望節には、必ず、この洗礼者ヨハネの声に耳を傾ける時として、教会暦の1年の初めに、この個所を読むのであります。
洗礼者ヨハネは、御承知の通り、主イエスの誕生の半年前に、老年のエリサベトから生まれた、主イエスとは親戚の人です。そのヨハネが、公に世に現れるまで現れるまで、荒れ野にいたと聖書は記していますが、「そのころ」すなわち、「その日々において」、終末のときにおいて、荒れ野に道をまっすぐにせよ、主のおいでになる道筋を整えよと、イザヤ書の預言の言葉を引用して、人々の前に現れたのであります。
そして、ユダヤ近辺からは続々と、洗礼者ヨハネのもとに水で悔い改めの洗礼に与るために人々が来ていました。人々は、あるいは、この人が、来たるべきメシアではないかとさえ感じていたほどでありました。
しかし、ヨハネは、私はその方ではないと公然と宣言し、自分のすぐ後に、私よりもはるかに力あるお方がお出でになり、私はその方の靴を脱がせてあげるにも値しない存在だと告げるのであります。そして、ファリサイ派やその他の偽善者たちに対して、神の怒りの裁きから、あなた方は逃れられないと警告し、悔い改めにふさわしい実を結べと迫ったのであります。そして、私は水で悔い改めの洗礼を宣べ伝えているが、その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになり、収穫の時に、脱穀場でよき実、穀物は倉に納め、もみ殻は、火で焼き払われると、まことの洗礼を受け入れるようにと人々を招いたのであります。
私たちは、イエスのみ名によって、洗礼を受けた者、あるいはそれに、招かれている者たちの集まりであります。
ところで、色々な方々が、教会には電話をかけてきて、相談ごとをしてきたり、悩みを打ち明ける方もおられます。その方々も含めて、ヨハネは、主イエスによる聖霊による洗礼、すなわち、救いの洗礼と、火による洗礼、すなわち、裁きによる洗礼を、今こそ待ち望み、それに備えるようにと、2000年経った今日もなお、この世の荒れ野において、呼ばわっているのであります。
み子のお誕生を真に喜び迎える備えをする時であり、また、再臨の日にまことの王として来られる主イエスを、身をただしながら、心を静めて待とうではありませんか。
アーメン。


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2013/12/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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