津田沼教会 牧師のメッセージ
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「それでも、神はわれらと共に」(マタイ1:18-23)内海望牧師
マタイ1:18-23、2013・12・15、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書7:10-14、ローマの信徒への手紙1:1-7

マタイによる福音書1:18-23
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。



説教「それでも、神はわれらと共に」(マタイ1:18-23)内海望牧師
 今、ヨセフは深い苦悩のうちにありました。正しい人として神さまの律法に反することは出来ませんでした。それで、マリアと別れようとしていたのです。しかし、同時にマリアを愛する者として、マリアを窮地に追い詰めることはどうしてもできませんでした。正しさと愛の狭間にあって悩みに悩んでいたのです。「ひそかに」という言葉は、「事実を隠そう」などという姑息な考えではありません。何とかマリアを「さらし者にしないで」という苦悩に満ちた愛の決断であったのです。
 ところが、神さまのみ使いが、「マリアを受け入れなさい」という神さまの命令を伝えた時、ヨセフは、すべての思い煩いを捨てて、神さまの命令に従ったのです。「マリアの胎の子が聖霊によって宿った」という奇跡が本当かどうかなど、くどくど全く考えないほど、まっすぐにみ言葉に身を投げたのです。これは決して、けいそつな信仰ではありません。ヨセフは深く考える人でした。だから、悩みも深かったのです。しかし、ヨセフは受け入れたのです。「神信頼」とは、このように自分を捨てて、み言葉に跳躍(ジャンプ)するということなのです。これは身命を賭けての決断だと思います。
 私たちはヨセフのようにみ言葉に向かって跳躍できるでしょうか。
 実は、聖書には、イエスさまの来臨を喜ばない人々が数多く出て来ます。ヘロデ王はイエスさまの虐殺を命じました。ファリサイ派の人々、律法の専門家、祭司、民の長老などは、イエスさまの殺害を計画しています。悪霊は真っ先に神の子イエスさまの出現に悲鳴をあげています。それほどイエスさまの誕生に対する抵抗は強かったのです。
 彼らは、どうして反抗したのでしょうか。それは、イエスさまが地上に来られることによって自分たちの正体が明らかになるからです。イエスさまのみ言葉、その生き方の一つ一つが、彼らの偽善を暴露していくからです。人を裁きながら、自分を高めようとする生き方が、イエスさまの存在によって明らかになっていくからです。
 私たちは、クリスマスを喜びのうちに迎えようとしています。それは、ほとんど年中行事のようになっています。しかし、ヨセフのように、あるいはファリサイ派の人々のように、今、現実にイエスさまを今ここに迎える時、私たちの心はどのように動くのでしょうか。
 私たちは、無意識のうちに自分たちをファリサイ派の人々、律法学者、祭司長ではないと思い込んでいます。むしろ、彼らを批判する側に自分がいると考えているのです。しかし、本当に、私たちに彼らを批判する資格があるでしょうか。
 ある作家が、「今度イエスさまが来られたら、私たちは、以前のように迫害しないで心から大切にする」という人に対して、「いや、今度も君たちはイエスさまを十字架につけるだろう」と語っています。確かにそうであるかもしれません。今、私たちの傍らに、心から痛める人に心を寄せ、自分を殺そうとする者のために、心から執り成しの祈りをするような方がいらっしゃるなら、私たちも、あの悪霊のように逃げ出すか、あるいはイエスさまを追い出す人々の群れにつながってしまうでしょう。私たちは多くのことを隠して生きているのです。光であるイエスさまによって、それが全部明らかになるのです。恐ろしいことです。イエスさまがいては迷惑なのです。
 あるスイス人牧師は、今日の聖書の箇所の黙想のための文章に、「私たちがそもそも良心を持っている限り、そしてそれが明確な良心であって眠った良心でない限り、<神、我に逆らって>であるのは間違いない。」と書いてあるのを読んで心刺される思いをしたことがあります。
 待降節の典礼色を、悔い改めを表わす紫に設定したのは洞察であると思います。普段、私たちの良心は眠っているのかもしれません。ダビデ王も、預言者ナタンから、「その男はあなただ」と指摘されるまで、自分の犯した罪に気づきませんでした。これは、罪を負った人間の悲しい性です。ですから、私たちは待降節を悔い改めの時として持つのです。
 今日の福音書で、ヨセフは天使から、「ダビデの子ヨセフと呼びかけられています。これはダビデのすえから救い主が生まれる」(イザヤ書11章、ミカ5:1)という預言に基づいている言葉でしょう。事実、今日の日課の前には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と題して長い系図が書かれています。これは罪人の系図と呼んでもよいものです。部下を殺害し、その妻を奪ったダビデを初め多くの罪人が書かれています。女性も4人含まれています。
 しかし、その4人も罪深い結婚によって息子を産んだタマル、ヨシュアを助けた遊女ラハブ、義母ナオミに忠実なモアブ人ルツ、ダビデに夫を殺されたバト・シェバ、皆、何らかの形で、罪と労苦を背負っている人々の歴史です。今日、「み言葉の歌」として有名なルターの作詞、作曲の讃美歌300を選んだ理由は、まさにここにあります。これは詩編130編そのままです。短い詩ですから、全文を読んでみましょう。(973ページ)。
 イエスさまを本気で迎える時、私たちは自分たちがいかに深い淵に落ち込んでいるかを知らされます。<神、我らに逆らって>ということは、「我、神に逆らって生きる>ということの自覚です。イエスさまの系図は、まさにそのように深き淵に落ち込み、そこから救いを求める私たちと共にイエスさまは生きて下さるということを示しているのです。ここに、今日与えられた福音があります。このような罪人の呻きを共に苦しみ、執り成して下さる方がイエスさまなのです。
 私たちは、哀れなファリサイ人かもしれません。自分の努力では、洗っても洗っても決して白くならない心の持ち主かもしれません。それでも天使はなお、「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」と告げてくれるのです。私は説教題に「それでも」とつけざるを得ませんでした。しかし、これに優る喜びはありません。私たちは、深い淵から救い出されたのです。このことを共に感謝しましょう。
 マタイは福音書を「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」という復活のイエスさまの言葉で結んでいます。イエスさまによって、私たちは神さまとの結びつきを回復したのです。「世の終わりまで、いつも」という約束のみ言葉を信じてクリスマスの時に向かって歩みましょう。
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2013/12/15(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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