津田沼教会 牧師のメッセージ
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「救いの主がお出でになる」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2013・12・01、待降節第1主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書2:1-5、ローマの信徒への手紙13:11-14

マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いノベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。






説教「救いの主がお出でになる」(マタイ21:1-11)

 アドベント、待降節になりました。新しい教会暦の新年に入りました。本日からは、教会暦A年で、主たる福音書として、マタイによる福音書が読まれます。私たちのルーテル教会の教会暦では、共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが3年サイクルで主たる福音として順番に、A年、B年、C年として読まれます。これは、ローマ・カトリック教会の伝統に従っています。
 しかし、ルーテル教会では、1年の教会暦の初めである今日、待降節第1主日と、受難週に入る枝の主日に、エルサレム入城の記事が二度にわたって読まれるのであります。それほどに、愛読されてきたエルサレム入城の記事であります。
 今年は、マタイ福音書21章1節から11節に従って、この入城の出来事に思いを馳せたいと思います。言うまでもなく、教会暦の初めである今日は、紫の聖卓の布からも分かりますように、王として再び来られるメシア、主イエスを待ち望むために、この個所を読むのであり、受難節、四旬節の最後の週、受難週に入る場合に、再びここを読むのは、文字通り、十字架におつきになるための主イエスのエルサレム入城を思い起こすためであります。
 さて、今日のこの福音の記事を思い起こしてみましょう。主イエスの一行は、ベトファゲへと、オリーブ山の麓へとやって来ます。そして、主イエスは、二人の弟子を遣わして、言われるのであります。向こうの村へと行きなさい。そうすれば、雌ろばと子ろばがつないであるのをあなた方は見出すだろう。あなた方は、それらをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、何か言ったら、それらの主が必要を持っておられますと、言いなさい。彼は、すぐに、それらを遣わすだろう、と。
  それは、ゼカリヤ書9章の9節、ないしは10節の預言が実現するためでありました。そこには、こう記されています。エルサレムの娘よ、喜び踊れ、シオンの娘よ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところにお出でになる。彼は、柔和な方で雌ろばの子、子ろばに乗って、と。そして、10節には、彼により、平和がもたらされ、彼の支配は、海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶと、預言されているのであります。
 しかし、さらにマタイは、この子ろばは、荷を負うろばの子と書いており、それに乗って来られる王は十字架につく苦難のメシアであることを示しているのであります。そして、彼が、高ぶらない、謙った、悩まされる方であることをゼカリヤ書は預言しており、それが、この時、成就するのであります。
二人の弟子たちは、主イエスが言われたとおりにし、雌ろばと子ろばを連れて来て、それらの上に彼らの服をしくと、彼はそれらの上にお乗りになったのであります。
そして、夥しい群衆も、その道に、自分たちの服を広げ、あるいは、他の者たちは木の枝を切って来て、広げていたのであります。そして、前を行く者も、後ろに従う者も、ダビデの子にホサナ、主のみ名によって来る方に祝福があるように、いと高きところにおいて、ホサナと歓呼の声をあげていたのであります。
 エルサレムの人たちは、一体、これはどういう人だと言って騒ぎ立ちました。これは、うろたえた、とも訳される言葉であります。一緒にやって来ていた群衆たちは、この方は、ガリラヤ出身の預言者イエスだと、言っていたというのであります。
 マタイ福音書は、特に、旧約聖書が主イエスによって、実現したことを強調する福音書であります。主イエスは、ゼカリヤ書の預言を知っていたでありましょう。このマタイ福音書21章1節から11節においては、1節から7節までは、弟子たちのふるまいが記されています。そして、8節から11節までは、主イエスと共に進む群衆の反応が記されています。そして、両段落に旧約聖書からの、引用があることは、マタイの意図を知る上で重要であります。
 マタイにとっては、雌ろばと、子ろばに乗って、イエスがエルサレムに来たという事実が重要だったのであります。そして、マタイは、ゼカリヤ書の言葉を微妙に変えています。シオンの娘よ、大いに喜べを、シオンの娘にあなた方は言いなさいとし、彼は、勝利を与えられる者を省略し、彼はろばの子に乗って来るを、彼は荷を負う子ろばに乗って来るにしています。
 これらは、ろばに乗る王から、栄光の像を取り去るためでありました。栄光の王としてではなく、その姿は、人々が予想するような勝利の王ではなく、謙った柔和な方として、この救いの主はお出でになられるのであります。
 そして、群衆もまた、主イエスを預言者と見て、まことの救い主であることが理解できなかったことを示しています。
 彼らの理解は浅く、苦しむメシア、まことの救い主であることを理解できなかったのであります。
 マタイは、荷を負う子ろばに乗ってこられるまことの王、まことの平和をもたらす王、旧約聖書をも超えた救いの主がお出でになることを、私たちに示しているのであります。
 私たちは、この教会暦の初めに、第2のアドベント、すなわち、再臨の主イエスを待ち望みます。そして、2000年前に救い主としてマリアのもとにお生まれになったみ子イエスを、クリスマスに、すなわち、第1のアドベント、到来として、祝うのであります。
 まことの王である救いの主が、再臨の日に、柔和で謙った悩みを担った方として、来られることを、この一年の教会暦の初めに、待ち望みましょう。アーメン。

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2013/12/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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