津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなた方が私を選んだのではない」(ヨハネ15:1-17)
ヨハネ15:1-17、2013・11・03、2013・11・03、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式)、エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙6:1-11

ヨハネによる福音書15:1-17
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「あなたがたが私を選んだのではない」(ヨハネ15:1-17)

 今日は、全聖徒主日です。今日の第1の朗読、エゼキエル書37章1節から14節は枯れた骨の復活を預言しており、召天者を覚える礼拝にふさわしい記事だとすぐに思わされます。
 しかし、今日の福音の記事として、ヨハネ福音書15章1節から17節が与えられているのは、なぜかは、すぐには分かりません。どうして、この個所が、あえて、この全聖徒主日に与えられているのか、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 この個所は、いわゆる告別説教と言われている記事、14章から17章に含まれています。
そして、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と始まっています。イスラエルの民は、昔から、ぶどうの木と譬えられてきました。
 それに対して、主イエスは、ご自分こそ、真実の、純正なぶどうの木と言われ、父なる神は、手入れをなさる農夫であると言われたのです。そして、弟子たちには、あなた方はその枝であり、私につながっていなければ、とどまっていなければ、自分からは何もできないとおっしゃられた。
 キリストを離れては私たちは何もできないことを、毎日の生活の中でいやというほど体験させられるのが、クリスチャンではないでしょうか。しかし、主イエスは、主イエスの語りかけられるそのみ言葉によって、私たちは既に清くされていると言われる。
 全聖徒を今日は、記念していますが、生きている私たちも含めて、全聖徒とは、キリストによって選ばれて、既にみ言葉によって清くされた者たちであります。
 私たちは、自分でキリストを選んだと考えがちですが、実は、主イエスの方が私たちを先に選んで下さったのであります。しかも、主イエスは、私たちを御自分の友と呼んで下さる。
 自分で、主イエスを選んだと考えている人は、それが、自分の利益にはならないと判断するや否や、主イエスを離れ、捨て去ることになるでしょう。
 主は言われます。その友どものために、自分の命・魂を捨てること、あるいは、原文のそのままの意味を訳せば、自分の命をその友どものために、置くこと、それ以上の大きな愛をだれも持っている人はいない、と言われたのであります。もちろん、これは、主イエスが御自分の命を私たち、イエスの友どものために捨て、差し出し、おいて下さることを意味しています。
 そして、主イエスは、新しい掟を、私たちに与えられた。それは、私たちがお互いに愛し合えということでありました。
 私たちが、主イエスを選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは、私たちが互いに愛し合うため、そして、私たちが出て行って、より多くの実を結ぶために、選んで下さったのであります。
 津田沼教会では、生前に洗礼に与り、あるいは、堅信礼に与った兄弟姉妹のみならず、そこまでには至らなかった御家族、たとえば、私たちの洗礼には至らなかった両親、あるいは伴侶をも、遺影を持参して、年に2回の召天者記念礼拝を、このところ守っております。それは、主イエスの愛は、信じるには至らなかった者をも、救うほどに大きいからであります。一方で、信仰に入れられている私たちは、主によって選ばれた者として、主から、離れずに、この地上の生涯を、出て行って良き実を結ぶ者として、残された人生を歩んでいく、正しく、自分の生と死について考える時としたいのであります。アーメン。
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2013/11/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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