津田沼教会 牧師のメッセージ
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「まず神殿から清める」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ2:13-22、2013・10・27、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下22:8-20、ガラテヤの信徒への手紙5:1-6

ヨハネによる福音書2:13-22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「まず神殿から清める」(ヨハネ2:13-22)
 
 皆さん、宗教改革主日を迎え、おめでとうございます。宗教改革の始まりとされるのは、1517年ですから、まもなく2017年には、宗教改革500年記念を迎えることになります。
 日本福音ルーテル教会の機関紙である「るうてる」10月号にも報じられていましたように、日本でも、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会が宗教改革500年祭を共同で祝うために、着々と対話が始まっています。
 言うまでもなく、マルティン・ルターが1517年10月31日、すなわち全聖徒の日である11月1日の礼拝に備えて、その前日に、ヴィッテンブルクの城教会の門扉に95カ条の提題を張り付け、いわゆる免罪符、正確には贖宥券と言いますが、それの販売等に反対したことが、意外な反響を呼び、全ヨーロッパに宗教改革の波が押し寄せて行くことになったのであります。
さて、宗教改革主日に、今日の福音の個所として、ヨハネ福音書2章13節から22節が与えられているのは、なぜでしょうか。しばらく、御一緒に考えてみましょう。
ところで、私たちが毎週日曜日に読まれます、そして、慣れ親しんでいます通常の3年サイクルの福音記事は、ローマ・カトリック教会のペリコペーに準じています。福音書記事以外の旧約聖書からの第1朗読と、使徒書からの第2朗読も、同じ場合、あるいは、重なっている場合が多いのです。
しかし、ルーテル教会では、今日の宗教改革主日の福音は、あえて、ここの記事が3年に一度、与えられているのであります。旧約聖書の個所も、使徒書の個所も、宗教改革にふさわしい記事が選ばれているのであります。ローマ・カトリック教会では、おそらく、特に宗教改革主日としては、今日私たちが与えられているようなペリコペーは用いられていないでしょう。
さて、今日の福音の記事には、主イエスが、公生涯の始まりの時になされたみ業と語られたみ言葉が記されています。
主はご自分の体でもって、しかも霊とまこととをもって、諸国の民が主イエスを、また、主イエスを遣わした父なる神を礼拝する日が来ると言われました。それに対して、ユダヤ人たちは、その時までに、46年もかかって、修復中であった目の前のエルサレム神殿が、将来崩壊され、もはや、エルサレムの神殿での犠牲礼拝がなくなることを預言した主イエスの言葉が信じられなかったのであります。
神殿での礼拝、また、教会での礼拝も形をもつことを、人間は求めます。宗教改革が起こった当時、カトリック教会は、聖ペトロ大聖堂等を修復するため、免罪符、贖宥券を発行し、それを民衆たちは買うことによって、自分の父母や、祖父母、先祖たちの霊も救われると平気で説いていたのであります。
それに対して、マルティン・ルターは聖書にはどこにもそのような事柄、保証は何も示されていないということから、先ほど言いましたように、95ケ条の提題を1517年10月31日に住んでいた町、ヴィッテンブルクの城教会の門扉に張り付けたのであります。
そして、それまでに、ルターは長い修道僧としての修養や聖書の研究を重ねたあげく果てに、「人は信仰のみによって、義とされ、救われる」ということを、ローマの信徒への手紙1章17節などを根拠として、ついに救い、すなわち福音を発見するに至っていたのであります。
旧約聖書に記されている律法によって、たとえば、モーセが主なる神から、シナイ山で与えられた十戒を通して、人間はそれを読むとき、良心が驚愕させられ、根底から恐怖させられます。しかし、福音の約束と福音の実現によって、人は初めて、慰めを得、平安を与えられることを聖書、すなわち、旧約聖書と新約聖書を通して、ルターは発見したのであります。
現代の私たちもまた、宗教改革者たちと共に、今日の、主イエスがなさった激しい宮清めのふるまいを通して、主イエスが、まことの礼拝の道を、私たちのために開いてくださったことを信じることができるのであります。
 私たちの教会もまた、今日の記事で主イエスが、腐敗した、犠牲と礼拝をささげる形となりさがっていたエルサレム神殿をまず清めることから、その公生涯をお始めに成ったように、絶えず、礼拝の形を整えていくと共に、その内実を豊かにしていく、すなわち、霊とまことをもって礼拝する教会になるよう、今日の主イエスのふるまいを通して、教えられているのであります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
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2013/10/27(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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