津田沼教会 牧師のメッセージ
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「聞かれた信従」(ルカ17:11-19)
ルカ福音書17:11-19、2013・10・13、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)、列王記下5:1-14、テモテへの手紙二2:8-13

ルカによる福音書17:11-19
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」



説教「聞かれた信従」(ルカ17:11-19)

今日は、先週に引き続くルカ福音書17章11節から19節が与えられています。ルカ福音書17章11節と末尾の19節は、ルカが、構成し、言わば作文した文章だと考えられます。あとの17章12節から18節が、もとからあったもので、福音書記者ルカが手にした伝承であったと考えられます。
ルカは、改めて、本日の奇跡の出来事が、エルサレムへと、主イエスが進まれる途上において、すなわち、主イエスの十字架をかけて、今日の出来事が起こったと記しているのであります。ルカ17章11節は、「そして、成ったことには、主イエスがエルサレムに進まれることが、そして、彼はサマリアとガリラヤの真ん中を進んでおられた」と書き出されているのであります。
それは、サマリアとガリラヤの中間地帯で、言わば追放されていた10人の「重い皮膚病の者たち」が国境を超えて、共同生活を送っていたと考えられます。そして、そこでは、「重い皮膚病」あるいは「らい病人」「ハンセン病」であったかもしれませんが、彼らは社会から排斥された生活ではなく、差別から解放されて、ユダヤ人も、サマリア人も区別のない生活を、彼ら自身で築いていたということを示しているのかもしれません。
主イエスが、ある村にお入りになるとき、10人の重い皮膚病の人たちがやって来て、遠くに立ち、「イエスよ、師よ、私たちを憐れんでください」と、声を持ちあげます。
主イエスは、それを見て、「あなたたちは祭司たちの所に行って、自分の体を見せなさい」と言われます。
そして、成ったことには、彼らは進んでいくことにおいて、清められたのであります。そして、彼らのうちの一人は、自分が癒されたことを見て、大声と共に、神をほめたたえながら、引き返し、主イエスの足もとにひれ伏し、感謝したのであります。
他の9人も重い皮膚病からは、清められたのであります。けれども、彼らは信仰の目でみて、主イエスのもとに引き返す、すなわち、救いを信じ、改心するまでには至らなかったのであります。
主イエスは、奇跡をなさり、病気を癒されます。それは、天の父なる神を通して、なされるみ業であります。今日の第一朗読で読まれた、列王記下5章のシリアのナアマンの場合には、神の人エリシャのもとに来て、エリシャは、自分の家から出て、会いもせず、ただ「ヨルダン川にて七度、身を清めよ」と伝えるのみでありました。
そして、自分の力ではなく、神の力によって、ナアマンの重い皮膚病は癒されたことを、知っている預言者エリシャはナアマンの贈り物を受け取ることも固辞しました。
主イエスは、エリシャ以上のお方であり、ただ、祭司たちにあなた方の体を見せるようにと言われ、言葉だけで、重い皮膚病を彼らが祭司たちの所に向かっている間に、清めることができたのであります。
しかし、一人の者、サマリア人だけが、自分が癒されたことを見て、信仰の目で神の思いを知り、引き返して来て、主イエスの足もとに、感謝して神を賛美するのであります。 
私たちもまた、このサマリア人ではないでしょうか。資質や功績によるのではなく、神の恵みを知って、信仰の目を開かれ、戻って来た、改心した存在ではないでしょうか。 
主イエスは言われます。「10人が清められたのではないか。あとの9人はどこに。神に栄光を与えるために、引き返して、見出された者は、この外国人の他にいないのか」と。 
私たちは、長い生涯の間には、病気に苦しめられることがあります。また、そうでなくても、詩編の詩人は言いました。私たちの生涯は露のようなもの、長生きしても、70年、80年、私たちは、み前に露のように消え去るのですと。私たちは、老いを迎えると共に、体力や能力も減退し、世界一の長寿国と言われても、その最期は病院の器具に取り囲まれて迎える人が大多数というのが実情であります。
確かに、重い病が癒されることは、主イエスによってなされた不思議なわざであります。私たちも、主イエスによって癒されたいという願いが率直なところ、だれにもあります。
しかし、今日、登場した10人の重い皮膚病が清められることが、より重要なのではなく、それを通して、癒し、救いに至る信仰、神との交わり与えられることがより重要なのであります。信仰の目、心の目が開かれて、罪が赦されて神に感謝をささげるに至ることを、主イエスは何よりも願っておられるのであります。
私は、本日の説教理解にも少し書いておいたのですが、水俣教会でお世話になった御婦人が悪性リンパ腫でなくなられ、今日の午後2時から、告別式があります。私が牧師になって、2年目、結婚して水俣教会に赴任し、4年間の短い信仰のお交わりを与えられました。ご家族では一人で、教会につながっておられましたが、ご家族にとっても、その姉妹の信仰と教会生活は、大きな励みとなり、力となったことでしょう。
私たちも皆、寿命が尽きれば、天に召される土の器に過ぎません。けれども、信仰にある交わりは、決して、死を通しても絶たれるものではないでしょう。信仰、それは、資質とか才能とかによるものではなく、神さまからのお恵みであります。
私たちも、今日引き返して来て、主の足もとに感謝してひれ伏したサマリア人のように、与えられた癒しを信仰の目で見て、主イエスと父なる神に応答する信仰者でありたいと思います。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




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2013/10/13(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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