津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「格闘的祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師
ルカ福音書18:1-8、2013・10・20、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、創世記32:23-31、テモテへの手紙二3:14-4:5

ルカによる福音書18:1-8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「格闘的祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師

 「祈ること」を許されているということは「恵み」です。「祈り」は、いわば日常生活の中での深呼吸のようなものです。疲れ、気落ちしたとき、祈りによって新鮮な聖霊の空気を胸いっぱいに吸い、新しい力が与えられます。またある時は、感謝の思いが心に満たされ、心安らぐ時があります。
 現代社会では、カウンセリングが盛んですが、そして一定の効果を上げていますが、河合隼雄さんは専門家として「心理療法の根本は祈りではないかと思うことがある」と述懐されています。祈りはカウンセリングを根底で支える深さを持っているのです。

 今日の日課を読むと、イエスさまは「絶えず祈らなければならない」とおっしゃっています。あるいは、マタイ6章では「こう祈りなさい」と命じ、「主の祈り」を教えて下さっているのです。しかし、私たちは、神さまの前に立つことも出来ない罪人です。まして、神さまに祈ることなど到底許されません。事実、預言者イザヤは、神さまの前に立った時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6:5)と叫びました。ルターも「私は塵や灰であって、罪に満ちていながら、生ける神の前に立っているではないか」と叫び、地に倒れたと言われています。当然の反応だと思います。
 ところが、イエスさまは「祈るべき」あるいは「祈りなさい」とおっしゃって下さるのです。どうしてでしょうか。それは、イエスさまが十字架の贖いにより、神さまと私たちの間に橋をかけて下さったからです。イエスさまが十字架上で命を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真ん中から裂けた(真っ二つに裂けた)と記されています。今まで、「天と地」「神さまと人間」の間にあった垂れ幕がなくなり、神さまと人間とが再びつながったことを示す光景です。
 イエスさまが「祈りの架け橋」となって下さったのです。ですから、わたしたちは、イザヤのように神さまを恐れずに、安心して祈ることができるのです。それどころか、ローマ8:15のパウロの言葉によると「アッバ、父よ」(お父さん!)と親しく呼びかけることさえ許されているのです。「祈り」は、まさに「イエスさまによる恵みの賜物」なのです。どうして恵みを無駄にしてよいでしょうか。だからこそイエスさまは、「絶えず祈れ」とおっしゃるのです。
 ところで、今日の福音書の物語と、第一の朗読である創世記32章の物語とは非常に似通っています。ヤコブがヤボクの渡しで、自分が裏切った兄エサウとようやく再会を果たそうとしたとき、それを阻もうとする神さまの使いと夜明けまで格闘したという物語です。ヤコブはどうしてもエサウに会って謝りたかったのです。私は、ここに祈りの大切な点があると思います。
 「祈り」は単なる祈願ではありません。祈願というのは、自分の願いを神さまにぶっつけるだけの「独り言」です。それは、「当たるも八卦」という無責任な態度でもあります。しかし、この福音書のやもめにしてもヤコブにしても、どうしても願いを聞いてもらわなければならないという真剣さ、そのためには神さま(裁判官)と対決する覚悟があります。「祈り」は、「神さま、どうしても助けて下さい。あなたしか助け手はいません。」という真剣な「対話」なのです。
 やもめの相手は「不正な裁判官」ですから、「正しさ」など求めても無駄なことは分かっています。しかし、彼女にとって助け手はここにしかいないのです。だから、裁判官が取り上げてくれるまでいつまでも願い続けるという覚悟が、このやもめにはあったのです。その真剣さ、執拗さが予想されたので、裁判官も折れるのです。この「聞き届けられるまで祈る」という姿勢は「祈り」にとって大切です。ともすると私たちの祈りには、神さまに祈りながら、他の方法での解決も探るという不誠実さがあります。しかし、「あなたしか助け手はいません」と神さまにしがみついて行くという姿勢こそ大切なのです。これは、神信頼の問題でもあります。「神さま。あなたしかいません!」という叫びです。この格闘的な祈りの極致が、あのイエスさまの十字架上の祈り、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」です。イエスさまは「見捨てられた」と言いながらも、なおも、「あなたしか頼る方はありません」と祈り続けられたのです。これも「対決」といえる姿勢です。だからこそ、最後には「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」と言って、安らかに息を引き取ることがお出来になったのです。
 今日の日課の初めに、イエスさまが「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」とおっしゃっていることにも目を留めて下さい。また7節には「彼らをいつまでもほうっておかれるだろうか」という意味が少しあいまいな言葉があります。文語文には「たとえ遅くとも」となっており、シュラッターというドイツの神学者は「たとえどんなに気長に待たせるとしても」と訳しています。つまり、これは「祈りは聞かれた」とすぐに喜ぶようにはならないという意味です。ですから、イエスさまは、このやもめのように「絶えず祈るべき」あるいは「執拗に祈れ」とおっしゃっているのではないでしょうか。「助け手はあなただけです」と神さまに信頼して祈り続けるということが大切なのです。決して「独り言」ではありません。「最近は格闘的祈りが少なくなった」と嘆く神学者がいましたが、確かにそう感じます。
 これは神信頼が少なくなったというしるしではないでしょうか。格闘的祈りには忍耐が要ります。しかし、どこまでも神さまに信頼し、神さまにしがみついて祈り続ける時、私たちは人知を超えた神さまからの平安を与えられるのです。私たちの祈りは「たとえ遅くとも」「どんなに気長に待たせられても」必ず聞き届けられたことを感謝する時が来るのです。それは、「私たちの願いが叶う」ということではないかも知れません。イエスさまは、「パンをほしがっている自分の子供に石を与える親がいるだろうか。まして、あなた方の天の父は、求める者に良い物を下さるに違いない。」とおっしゃっています。祈っている間に、私たちの願いが訂正されることもあるのです。これも重要なことです。たとえ訂正されたとしても、格闘的祈りの後には、私たちは穏やかな心で感謝をもって、天の父が与えて下さる物を良い物として受け取ることが出来るのです。
 ここでルターの言葉を思い出します。それは祈りについて大きな示唆を与えてくれます。「小教理問答書」の「主の祈り」の解説に、「日ごとの糧とは何ですか」という問いにたいして、「たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、良い政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」と書いています。ずいぶん欲深い祈りだと驚きます。御利益信仰ではないかという疑いさえ起こります。しかし、反対から考えると、これは「自分は何も持たない。すべては神さまから与えられるものだ」と言っているのと同じです。祈りは自己放棄なのです。ルターは死の床に、「私は神の乞食だ。これは本当だ」というメモを残しました。自分は何も持っていない、与えられるだけだ、という意味です。
 私たちは、まだ自分は何かを持っていると思っています。神さまに助けを祈り求めず、自分たちの問題を神さまの御手に委ねようとしません。神さまを何かいざという時の保険みたいに考えているのではないでしょうか。それは、傲慢です。ルターは問いかけます。「君たちは食卓のすべてを真剣に祈り求めたか」と。これは、「私を支えてくれるものはあなたしかありません」という格闘的祈りと共通点を持った神信頼に徹した祈りと言えます。
 ですから、8節後半のイエスさまのため息には心打たれます。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。私たちは、真剣に「私に、あなたにすべてを委ねる信仰を与えて下さい」と祈らなければならないのではないでしょうか。そのようにして弟子たちの目を覚まそうとされたのではないでしょうか。
 「気づいた時がもっともよい時だ」という言葉があります。今日、私たちもみ言葉によって気づかされたことを喜び、「私の命も、人生そのものもすべてを与えて下さったことに感謝します。」と祈りましょう。その時、私たちは思いに勝る平安と喜びを受け取ることが出来ます。
スポンサーサイト
2013/10/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。