津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスの弟子としてのあり方」(ルカ17:1-10)
ルカ福音書17:1-10、2013・10・06、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―聖餐式)、ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14

ルカによる福音書17:1-10
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
 



説教「イエスの弟子としてのあり方」(ルカ17:1-10)

私たちは、自分に罪を一日に七度も、犯す兄弟に対して、赦すことは、私たちの、本能、自然のままでは出来ないものであります。今日の主イエスの言葉は、私たちの本性、自然に挑むものであるように思われます。
しかし、最後の譬えにあるように、私たちは、神によって僕として立てられている者であります。私は、自分に危害を加える兄弟を、それも、一日に七度も、自分に対して攻撃して来る、罪を犯す者を赦すことはできないと思いました。
しかし、父なるは、全能の力をもって、私たちを赦し、どこまでも赦されるお方である。そして、私たちは、その赦しに受け入れられて、教会でも、兄弟の交わり、主にある交わりに招かれている者であることを、今日の主イエスの弟子たちに対する、また、特に、教会の指導者たちに対する、エルサレムに向かい、十字架に向かう主が教えておられます。人を、イエスの信仰から、落とし、主イエスを信じなくさせる罪よりも大きいものはないと、主は言われます。これを語ったとき、裏切るユダを直接には思い起こさせられますが、それに限らず、私たちを、イエスへの信仰から引き離す罪の大きさを語られるのであります。そして、よくよくあなた方も、注意しなさいと警告なさっておられるのです。
そして、使徒たちは、自分たちが、つまづきの罪からときはなたれ、自分に罪を犯す者を、無限に赦せと言われる時、それはとても、不可能だと感じ、自分たちの信仰を増し加えさせてくださいと願うのでありますが、主は、からし種一粒ほどの信仰があれば、それはできる。桑の木に、海に根をおろせと言えば、それらは服従すると言われるのであります。信仰が小さいとか、少ないとかいう問題ではなくて、信仰があるかないかだと主は断言されるのであります。
そして、私たちは、喜んで神に仕える僕とされているのだから、なすべきこと、主イエス、あるいは神の命令に従うのは、当然のこととして、喜んで従うのだと言われるのであります。
兄弟が罪を犯したら、とがめ、戒めなさいと言われる。喜んで、無限に、兄弟が、自分に対して幾度も犯す罪を、喜んで赦すことができるようになると、主は、ご自分の十字架死と命にかけて教えられるのでありますが、このときの弟子たちは、まだまだ、分からなかったと思います。
今日のみ教えを聞いている私たちも同じだと思います。しかし、父なる神に従い命令を行い、恩義があることを、僕は喜んで果たす者となるというのです。
 そして、そのなすべきことを果たしたならば、自分は、なすべきことをしたにすぎない不束な僕、無価値な僕にすぎない者ですと言いなさいと主は、私たちに命じておられます。
 もう、あんな兄弟は放っておこうと、やけっぱちになることがある私ですが、自分も主イエスを本当には知らない時、主イエスによって赦され、抱きとめられた者であることを想い起こし、今もなお、主は、自分を限りなく赦して下さっていることに今一度思いをいたし、七度、一日に私に罪を犯しても、七度、悔い改めて来るなら、実際には、なかなか、悔い改めてはくれないと感じるのですが、自分が神さまによって、大きな罪を赦された者であることを思い起こして、兄弟として、受け入れる。そのために、過分なことまではできないとしても、その兄弟のためにも心から祈り、悔い改めてくれることを、願い求める僕に、再び、されたいと心から思う者であります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2013/10/06(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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