津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「失われた者の回復」(ルカ15:1-10)
ルカ福音書15:1-10、2013・09・15、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)、出エジプト記32:7-14、テモテへの手紙一1:12-17

ルカによる福音書15:1-10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「失われた者の回復」(ルカ15:1-10)
先週、徳善義和先生が説教奉仕に来てくださいまして、ルカは、どうも偶数で、物語を書き進めており、それに対して、マルコは、奇数で書いているように思われると言われました。
私も、それが、当たっているかなと、今日の福音書ルカ15章1節から10節までを読んで素直に同感させられるのであります。
今日のルカ福音書の15章は、1節から32節までを読むと、3つの譬えが出て来るのでありますが、今日の日課である15章1節から10節は、対句のように2つの譬えが与えられているのにたして、15章の11節から32節の有名な放蕩息子の譬えがそれに付加されたものであります。
放蕩息子の譬えは、今年度の教会暦で取り上げられていますので、今日は、短い、ルカ福音書の15章の1節から10節が、主日の福音として別個に選ばれているのであります。
その前半の部分は、マタイによる福音書にも出て来ますが、そこでは、一人の小さな兄弟をも、躓かせないように、滅ぼさないようにしなさいとの意味合いで、99匹に対する1匹をもないがしろにしない羊飼いの譬えが出て来るのに対して、本日の譬えでは、ファリサイ派や律法学者の人々が、なぜ、主イエスは、徴税人や罪人たちと食事をまで共にするのかと不平を鳴らしたのに対して、主イエスは、ルカ福音書15章の「失われた者の回復」というテーマの譬えをここに、記録しているのであります。
始めの譬えは、羊飼い、すなわち、男の人が、1匹の見失った羊を捜すために、99匹を野原に残して、方々を捜し回り、やっとの思いで、見失っていたその1匹の羊を探し当て、戻って来て友人たちや近所の人々を招き寄せて、一緒に喜んでくれ、見失っていた羊を探し当てたからと言って、パーティを催すのであります。そして、主が言われるには、悔い改めを必要としない99匹の上によりも、悔い改めた1匹の上に、天には大きな喜びがあると言われるのであります。
また、次のたとえを対句のように、主は、ファリサイ派たちに向かって、語るのであります。10ドラクメを持っていた一家の主婦、それは、結婚の時にその女性が頭に付けて持ってきた大事なものであったとも言われますが、そのうちの1ドラクメを家の中で見失ってしまった。ユダヤの家は、簡素な粘土造りの、窓もないような一室だけのような、造りだとも言われます。見失った、大事な1ドラクメの銀貨、それは、今で言えば、一日の労賃として、1万円位に相当したものであったかもしれませんが、彼女にとって、大切な物であったに違いありません。
その主婦は、家の薄暗い中をともし火を付けて、箒で掃き、くまなく探し求めたのであります。そして、見つけると、女友達や近所の女たちを集めて、私と一緒に喜んで下さい。無くしていた1ドラクメを見つけましたからと言うであろう、と主は、ファリサイ人たちに、語り諭したのであります。
この譬え話も、ルカ福音書9章51節から始まる、エルサレムへの旅の途上で語られた譬え話であることを、私たちは、忘れてはなりません。
主イエスが、ご自分の命をかけて、この後に待っているエルサレムでの十字架の死を代価として、この譬えを敵対者たちに面と向かって語っておられるのであります。
私は、失われた100匹の中の1匹の羊、また、見失った10ドラクメの中の1ドラクメでありました。私は、京都で学生時代を長く過ごし、苦学しておりましたが、絶望の淵に落ち込みました。そのころ、求道中であったルーテル京都教会に行っていましたが、他にも浄土真宗の新派の親鸞会などにも交わりを持っていました。
しかし、闇のどん底に陥った時初めて、求道していた京都教会の人たちのことが、頭に浮かび、そして、主イエスしか、私を抱き留め、迎え入れてくれる方は、他にこの地上にいないのだということが、肌で分かったのであります。それは、理屈で分かることではありません。事実なのです。
見失われた者、罪人を、ご自身の十字架の死による贖いを通して救うために神の独り子、主イエスはこの世にこられた、唯一の方であります。そして、主を送られた父なる神は、罪人を見捨てたり、軽視したりするお方ではありません。それが、聖書の一貫して説いている神の愛であります。
私たちは、様々な形で、教会の門をくぐり、求道者となり、そして、洗礼を受け、あるいは、クリスチャンの家に生まれた人も、やがて、堅信礼を受けて、主イエスを救い主と受け入れたのであります。
この日本の社会の中で、特に現代において、この主イエスと聖書の信仰を証しし、キリストへと人々を導いていくことは、非常に困難なことであります。いろいろの疑惑や不信の念にすら襲われることがあるでしょう。しかし、主イエスは、そのような私たちをよくご存じで、しかも、先に回復された者として、私たちの周囲の人々、身内や、友人や、職場の同僚や、地域の人々、人生の中で出会うわずかな、限られた人々でありましょうけれども、その人々に、今日与えられている、私たち人間が、自分の持ち物、所有としての存在であり、自分に立ち帰って生きることを求めておられる父なる神のご意志を伝えることをゆだねられている一人一人であることを、改めて確認して、新たな信仰生活を歩み出していきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
スポンサーサイト
2013/09/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。