津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主に従う」(ルカ14:25-33)徳善義和牧師
ルカ福音書14:25-33、2013・09・08、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)、申命記29:1-8、フィレモンへの手紙1-25節

ルカによる福音書14:25-33
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」



説教「主に従う」(ルカ14:25~33)徳善義和牧師

 年を取ってきたから気になるかもしれないけど、こんなコマーシャルがあるんですね。数字忘れましたが、7と8だったと思いますね。たぶん、男は7の倍数、女は8の倍数であぶないという、あるいは統計的にも言うことができるのではないかなあと思いながら、まあ、でも、そんなものはねえ、まあ、何てことないわ、たかをくくっているんですが、でもその数字というのは考えてみるとおもしろいですねえ。私たちはこのところずうとルカ福音書を読んできたんです。去年マルコでした。
 ルカ福音書を読んできて、まあ、私はいろんなことを大変だ、大変だと苦しみながらやる方ではないんです。楽しんでやる方。ですから何かおもしろいこと発見しないかな。毎年マルコの年はマルコの年、マタイの年はマタイの年、ルカの年はルカの年、楽しんでこう読んで、あの考えてみているんです。今年はルカの福音書で説教することをしばしば、あの牧師していませんから毎週じゃないんですけど、しばしばしています。それ以外にあの日本キリスト教団が出している説教準備の雑誌があるんですが、年に4回出る雑誌があります。それがルカ福音書を連載していますので、私は毎号に一段落ずつ割り当てが来るとその個所を、あのいわゆる説教黙想という説教の前の準備をしていると、中の前のまあ平たくいうと与えられた聖書の個所を読みながらああでもない、こうでもないという、いろいろ考える、そういう原稿を原稿を書いているんですね。一回分が8千字なんですね。最初のうちなどはルカ福音書の2章の20節が当たったことがありました。たった1節ですよ。「イエス、幼子イエスと名付けた。」あの1節ですね。8千字書く。あの聖書の言葉を、何回繰り返したら8千字になるかと思うんですけど割り当ては8千字ですから書かなきゃなりませんね。書きました。それこそ、ああでもない、こうでもない。いろんなことを考えながら書いていくわけですが、ふと気が付いた。さっきの7の倍数、8の倍数じゃないんですけど、マルコは奇数ですね。3とか5とかそういう奇数で出てくるんです。3で出てくるでしょう。あのだれだかのいやしをすると中で間に別の話が入って来るなんていうのは、これ、3なんですよ、サンドイッチ型と僕は呼ぶんですが、サンドイッチ、そのサンドイッチがおもしろいんですよ。ねえ、サンドイッチは。そう黙想に書くんですよ。サンドイッチはパンがおいしいほうがいいか、具がおいしい方がいいか。どっちもおいしくないといけないんですね。今はコンビニで売っているパンが、サンドイッチがおいしくなっているそうですが、何か特別の食パン使って、そして、具にもこだわっておいしいサンドイッチを作って売ってる。まあそうなら、1度買ってみようかな、そういう気にもなったりするんですけど。サンドイッチ。
 この3つ話が、両側のつづきの話がよその話にはさまっているての、これ味わうの大変ですね。
 マルコの最初の所に、5つヤダヤ教の指導者たちとイエスの対立の話が出て来ます。5つですよ、奇数ですね。それで行くと、ルカは偶数何ですね。どうも偶数らしいですね。読んでみて。別に私は統計とってみるわけじゃないんですけど、平たくいうとルカ福音書は正、反で、正反、正、反で展開しているようですから、まあいろいろなところで、正、反の形で出てくるので、それで読めばいいわけです。イエスさまが、自分の受難の予告をなさった。日課にもありましたね。そしたらば、その後で、弟子たちがだれが一番偉いかと論争している。これ、正、反、ですよ。2つのくっついた話なんですね、ルカでは。これでこの、正、反で考えるのはなかなか面白い。対句で考えるのもおもしろいんですね。さて、8月の最後の日曜日でした。狭い戸口というあのルカ福音書の今日私たちが読んでいる所からだと1つ前になるんですかねえ。1ページ戻したところに出てくるあの個所で、市ヶ谷教会では神学生が説教しました。神学校の1年生なんです。まあ神学校1年生の人が、礼拝で説教をするというのはまだ早くて難しかろうかなというふうにも思いましたが。もう30過ぎの年配の社会人の経験のあるような、あのう、神学生なんですが、その礼拝が終わって、市ヶ谷は2階の集会室に上がって昼食会がありますね。
 そうすると、すぐに僕の所に飛んでくるんですね、手帳持ってるんですよ。「先生、今日の私の説教について何かお言葉がありますか。」「そうね、今日は説教の批評をするつもりで、今日は聞いてなかったけど、でもね、あの個所で気が付いたことを、あのお、言ってみましょうかね。説教黙想で、つまりああでもない、こうでもないと考えるとき、こんなことを考えておいたら説教をするときに、役に立つんじゃないの。」というアドバイスをしました。真面目な好青年ですから、さっそくノートを開いて私の言うのをノートに書いているんですね。私は先ず、第一に並行記事を読むこと、並行記事というのは聖書学的な言い方なんですが、ルカで書いてあるのは。マタイやマルコで書いてあるかどうか、書いてあればどういうふうに同じで、どう違うか、その似たような箇所を、ようく比べて読んでみる。これは、我々、こうやって比べて読んでみればいいんですが、学生用には便利な本があってですね、左側のページにはギリシャ語で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ギリシャ語で4つの欄がでてる。それだけで1冊の本になって出版されてるんですが、ご丁寧に今度は日本語のたぶん新共同訳と思いますが、新共同訳で右側のページに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、だあーと書いてありますから、そういう本を買っとけば、一遍で、ぱっと、その個所を開けば、読めるようになってるんです。ですから、あれ、買いなさいね。高くても買いなさいね。つまんない本買わないでね、ああいう基礎的な本を買うといいね。それで似たような箇所を比べて読んでみるといいんだよ。そうすると、どこが、同じで、どこが違うか、わかって、違うところが味噌だね。そう言った。つまり、ルカ福音書では狭い戸口の所が書いてあるけど、マタイの方は、これマタイにしかないんですから、狭い戸口と広い戸口と2つ書いてある。マタイは狭い戸口、広い戸口、2つに関心があったけど、ルカは狭い戸口しか関心がなかった。対句になってないんです、ルカでは。かわりに、ルカではその戸口が開いているか、閉待っているかが問題になっている。この対句をね、考える。これを考えるのよ。これが一つ。並行記事を読んでみて、そこでルカは対句、だから、対句を考える。先の人、後の人、これ対句ですね、やっぱり。じゃ、先の人と後の人ってのは一体、マタイで出てくるときと、ルカで出てくるときと、どう違うんだろうか、この対句を考えてみる。対句が隠れているときもある。隠れた対句をさがすのが大事だ。ルカではこの狭い戸口の所を読んで行くと、イエスは町や村を巡って教えながら、「エルサレムに向かって進んでおられた。」また、出て来た。「エルサレムへと向かって進んで行かれた」という。これに、ルカはひどく関心を持っているんです。
 もちろん、マタイ福音書も、ルカ福音書も、エルサレムに行かないとイエスさまは十字架と復活、ないんですから、エルサレムに行くってこと書いてるんだけど、ルカは念入りに書いてまして、ルカの福音書では9章から19章まで10章にわたってエルサレムへの旅の記録と呼ばれる大段落がある。そこでイエスさまは弟子を教育する教えと不思議な働きをしていらっしゃるんです。みんな「エルサレムへ」と言っているんだけれど、その雰囲気が違う。みんな書いてんです。マタイも、マルコも、ルカも、「エルサレムへ」。どこで
違いが出てくるか。エルサレムの後、どこへ行くのか。読んでみるといいね。これが違いなんです。対句の違い。対句を考えないといけない。
 マルコは、エルサレムへ行って十字架と復活があったら、弟子たちに、復活のイエスがガリラヤに行ったらそこで会えるとおっしゃる。「ガリラヤへ」なんです。これが特徴ですね。ガリラヤの素朴な民衆にこそ、神さまの愛の教えは、福音の教えは、本当に活きていくのだ、だからイエスさまはガリラヤの庶民の中から12弟子を選んで、その人たちをお育てになったんです。そしてガリラヤから世界に出て行く。マタイは、エルサレム教団ですから、エルサレムの神殿に集まる古いユダヤ教の人たちではなくて、本当に神の教えを聞くことのできる、新しいエルサレムの、新しいイスラエルの民が、神の福音を聞き、そして、宣べ伝えるのだ。エルサレムに関心がある。ルカは使徒言行録第2巻があるんですから、エルサレム「から」に関心があるんですね。たえずこれに気を付けてもらわないといけない。「エルサレムに行った」というだけではだめ。エルサレム「から」、全世界に出て行く。それで読んでみると、先の人、後の人っていうのは、マタイや他の所で似たような所が出てくれば「先の人」ってのは、早くから、イエスの来る前から、旧約の律法の教えにかなって、神の教えに従って生きているんだと思っていた人たち、「後の人」イエスの教えを聞いて、これまではわかんなかったんだけど、受け止めた人たちってことになるんです。
 ルカの福音書だったら、「先の人」ってのは、イエスがエルサレムに行く「まで」の人、「後の人」ったら、エルサレムに行ってから先の人、使徒言行録の人の所に出て来る人たち。つまり、異邦人ですよ。先の人、ユダヤ人、後の人異邦人であって、各々に主の言葉を、主の福音を、聞く人。全然、展望が違う。
 前置きが長くなったんですが、さてそうすると、今日私たちに与えられているこの難しい聖書の個所は、弟子の条件と付いているこの個所は、どう私たちは理解したらいいんでしょうか。私はここでもって、エルサレム「へ」、エルサレム「から」というのは、有効だと思ってるんです。この対句で、はさんで読んでみないといけないなと思っているんですね。
 エルサレムへ行く途上のイエスさまのなさることを見ていた弟子たち、何もわかっちゃいない。エルサレムの教えを、いわばエルサレムに行く途上で聞くイエスさまの教えのもと、なーんにもわかってはいない。我々、その角度で読んでいくともうもどかしい気がするんです。
 このルカ福音書を読んでいると何も分からない弟子たち。でも少しもこりずにイエスさまは、それでもその弟子たちに、お話しになっている。で、この個所を、マタイに並行記事が出てくるんですが、「父、母、妻、子ども、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないならば、私の弟子であることはできない。」驚くべきことはですね、これはかなわん。これが翻訳の難しいところですけど、「憎む」っていうのは、あるいはちょっと訳しすぎかもしれない。「憎む」てのは「少なく愛する。」これはギリシャ語よりも、むしろ、その背後にあるヘブライ語の考え方からみてみると、辞書なんかにそういうのが出てきます。
 「選ばない」とか「軽視する」とか、つまり、第一番に考えないってことです。とりわけ、ルカのこのくだりでは、「自分の命」てのが付け加わったですね。「自分の魂」でもいいんですよ。どう訳しても、「命」と「魂」は同じギリシャ語の単語ですが。思い出して下さい。ルカの12章にあったあの金持ちの譬え話。これ、「自分」でしたね、あの人の問題点は。自分の作物が一杯取れた。いや自分の作物なんです。今年は気候もよく、あったかいし、涼しい朝、適当な雨、これ神さまの恵みだと。これ、詩編の考え方でいくとそうなんですが、そう思うんじゃなくて、そんなことすっかり忘れて、自分一人で働いて作ったと思って、自分の作物って。「自分」がでて来るんです、あすこでは。あの譬え話の中にはね。自分の倉を建て替えて、自分の魂にこう言おう。自分第1なんですよ。で、ルカはこれを問題にしている。言い換えるならば、私はちょうど、マルチン・ルターがね、人間の罪の姿というのは、結局のところ、すべてのことにおいて、自分の利益を追求するんだと、断言をした。そういうふうに、ローマ書のあるところで注解しているんです。そういうところがあるんです。
 「あらゆることにおいて利益を追求する心」これが人間の罪なんです。その罪を持って生きているならば、私の弟子であることはできない。「弟子である」とこう訳されてありますけど、「弟子になる」と訳する人もいますね。弟子になることはできない。「であること」を「なること」ですから、「なること」はできないんだ。自分の十字架ってのは「自分の苦労」じゃないんですよ。自分が負うべき、イエスさまが十字架を負われたように、他者の重荷を、自分が負うべき十字架として負うという、その姿勢になって、私について来るのでなければ弟子でありえない。2つの譬え話をして、つまり世の中のことに関しては、計算して自分の利益になるかならないかってことをたえず考えて、最後まで計算をして、計算ずくで、結論を出してやっていくだろう。ただ建てるものを建てる時もそうだろう。戦をする時もそうだろう。できそうになかったら、途中で計画を改めるはずだ。だから、お前たちも世の中を生きていくときにはそうしろって言っているんじゃないんですね。
 人間は自分のことに関しては、そうやって一生懸命やるもんだ。自分がかわいいからだ。だけど、神に従っていくためにすべてを投げ出してこれに、神さまに従うというところにならなければ、私の弟子になることはできないんだ。聞いている群衆。群衆にと言っているけれど、もちろん弟子たちも一緒に聞いている訳です。
 歩きながらイエスさまはお話しになった。一番周りを取り囲んでいるのは弟子たちです。大きな声でお話しになっても、間近で聞いているのは弟子たちですから。・・反応なしですね。いや、ぐうの音も出ない。私たちもそりゃすっぱり聞いたらぐうの音も出ません。いやこりゃまいった。
 世の中のことにしたって、計算ずくと言われたって、私たちは自分のこともなかなか終わりまで計算ずくでしっかり読み通しですることはとてもできないでいる。あたふた、あたふたとその日の暮らしをしているようなものなのに、神さまの前にそれをすっかり捨てて、ついてこいと言われても、とてもできそうにありません。これを聞いたときの弟子たちの姿はそうです。エルサレムの途上でこれを聞きました。十字架と復活にあいました。赦されてからからの弟子たちの途上は始まります。変えられていきます。ルカはどうしても、使徒言行録という第2巻の出来事を書きたかったんですね。書かねばならなかったと私は思います。今年はあちらこちらの教会で説教しますから、勧めているんですが、来年はぜひ皆さん、このルカ福音書を日曜日に聞いた後は、来年は聖書研究で、あるいは、聖書の輪読でもいいから、使徒言行録をお読みなさい。わかってくる弟子たち、最後は自分の身を投げ出す、弟子たちの姿があるんです。今日の旧約聖書のあの、モーセの言葉を聞きましたよね。あなたたちはあの様子を見た、不思議な様子を見た、その時はわからなかった。しかし今日はあなたがたはわかった。見ること聞いてることがそのまますぱーっと我々にわかるわけがないんです。しかし、わかる時が来る。
 いつわかるか。それは私たち自身にも、わかりません。祈って待つ以外にないんですね。信仰は一生ものだと思います。そう思っていたら、昨日私は、ある牧師から一通のメールをもらいました。「先生、うれしいご報告です。私も嬉しくなって先生にぜひこのメールを書きたいと思ったから書いています。ここのところ私の教会で、一か月ほど、毎週日曜日に一生懸命礼拝に出て来る中年過ぎの男性がいるので、この間の日曜日には、声をかけてみました。」そうしたら、その方がこう言ったそうです。「私は20歳過ぎの時に、静岡のあるルーテル教会で洗礼を受けました。しかしそれから後、しばらくたって、仕事が忙しくなって、25年間、もうずっと教会にはご無沙汰していました。実はこの間」これで私にメールが来たんです。「徳善先生の岩波新書のマルチン・ルターを読んだ。あっこれだった、20歳の時、20歳過ぎて洗礼を受けた時の私の気持ちはこれだった。この神さまの言葉で一生を生きようと、決意した、と思ったことに気づきました。そこで、私はインターネットで一番近いルーテル教会を調べて、この間からこの教会の礼拝に毎週、通って来てるんです。」
うれしい話ではないですか。静岡の教会でこの人を洗礼に導いて、洗礼をした、宣教師の先生か、日本人の牧師か知りませんが、その方の思いを越えている、私があんなちっちゃなペラペラの本を書いて、その思いを越えている。神さまのなさることはすばらしい。私はその牧師にメールの返事を出す前に、コンピューターの前で、しばらく、その、話を聞いただけの中年過ぎた男性のためにハレルヤという思いを心の中に抱きながらお祈りをしました。
 使徒たちにとっても、一生ものだったんです。あれも愛したい、これも大事だ、最後は自分の命こそ、持ち物も大事だけど自分の命こそ大事だという、自己欲に固まる私たちなのに、その話を聞いても、弟子たちもわからなかったのに、その弟子たちは変えられて、殉教者にまでなっていく、そのようなことは今も、私たちの中で起こる、いや、私たちの中で起こるとこう言っているのではなくて、今も私の中で起こる。これはハレルヤでなくて何でしょうか。神さま有難うございますということでなくて、何でしょうか。そのような者に私たちは、変えられている、いく。神さまこそがその時をご存じだ。信仰の歩みは一生ものである。そういう脈絡で「エルサレムへ」そして、「エルサレムから」という対句の文脈のただ中で私は、今日の日課を、私たち一人一人のことと思って考えてみたんですが、私たちひとりひとりのことでなくていいかもしれない。そのある教会にやってきた、その中年の男性の方ひとりの方に起こりつつあること、そのこととしておぼえて感謝してよいのかもしれない。そのように私たちは神さまの恵みによって変えられていく、その恵みにあずかりたいとお祈りをしたいと思います。

お祈りします。

 天の父なる神さま、私たちにあなたの豊かな恵みが変わることなく、与えられ、注がれていることをおぼえて感謝をいたします。そのことに思いと言葉と心のすべてをあげてお答えすることをまことに乏しい弱い私たちですけれども、あなたの恵みは尽きることがありません。どうか、私たちが、すべてのものにまさってあなたを愛する思いをあなたから、いただき、深めていくことができるように私たちの生涯の信仰の歩みをあなたが、導いてくださいますように、お願いをいたします。感謝をして、主のみ名によって祈ります。
アーメン。
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2013/09/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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