津田沼教会 牧師のメッセージ
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「明日への備え」(ルカ12:13-21)宇野正徳牧師
コヘレトの言葉2:18-26、コロサイの信徒への手紙3:5-17、ルカによる福音書12:13-21、2013・08・11、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書12:13-21
  群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


説教「明日への備え」(ルカ12:13-21)宇野正徳牧師
1. はじめに
 今日の福音書は、一見、遺産相続の問題を扱っているように見えますが、イエスは、この相続問題を通じて人間の奥深くに眠る罪の問題を扱っています。
 主イエスのもとに遺産相続に不満を持つ人がやってきて「わたしにも遺産を分けてくれるよう兄弟に言ってください」と公平な調停を願い出たのですが、それに対してイエスは、その問題には触れず、人が生きるために何が大切かを説かれたのです。
 遺産相続問題は、洋の東西を問わずどこにでも見られます。普段は、仲のよい兄弟(姉妹)であっても、相続問題になりますとお互いに目の色を変えてその相続権を主張し合い骨肉の争いとなります。近年では、相続遺産は、単に財産の相続のみか、家督権や屋号を巡るトラブルなどに及び裁判沙汰となり親しい家族関係を引き裂くのです。その問題の根は、人間のもっとも奥深いところにある「罪」であり、人間を変え、人格や人柄までも変えてしまうのです。
 そこでイエスは、遺産相続の調停を願い出た者に、人間の心に潜む「罪の問題」について話されました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。人は、有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである。」(12:15)と。
 「貪欲」とは、「欲深く物を欲しがること」、「物に執着して飽くことを知らない欲」です。そうした思いが人を罪の虜とし、人間性を変え、正常な人間関係を保つことができなくするのです。
 ルターは、この貪欲(むさぼり)についてこう述べています。
 「思うにわれわれの生まれつきとして、だれも他人が自分と同じように、また自分以上に所有することを好まない傾向がある。また他人がどうなろうとかまわないだけで自分だけができるだけたくさん持ちたいという思いがある」(小教理問答書「十戒」の解説)。自分は特別であり他人と同じように見られたくない、人よりも多く持つことに喜びを感じることが「欲深く物を欲しがる」人間の性です。

2.「愚かな金持ちのたとえ」
 イエスは、そのような貪欲に執着する人間の姿を今日の日課の「愚かな金持ちのたとえ」を通して話されました。
 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちはあまりの豊作に驚き、収穫のすべてをしまい込もうとそれまであった倉を壊し、すべての作物をそこに納められる大きな倉を建て替えたのです。そして、自らに、『これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来た。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう』と、悠々閑々の生活ができることを喜んだのです。
 しかし、イエスは、財産を貯めること以外に何か大切なことはないのかと、あえて「自分が用意したものは、いったい誰のものになるのか」と質したのです。金持ちがいかにたくさんの財産(豊かな作物)を持ち、それを一生の宝として寄り頼み安楽な生活を送ることができたとしても「自分が用意したものは、誰のものになるか」と、永らえられる命の長さ(寿命)と財の管理状態との関係を説いたのです。最後まで生き残れるのはどちらか。
 イエスは、「人は有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできない」と。いかにたくさんの物(蓄えた物)を持っていたとしても、それから先何年も働かずに生きて行ける保証はどこにあるでしょうか。

 今日の第一日課のコヘレトには、人間が労苦して貯めたものがどうなるかについてこう記しています。
 「太陽の下でしたこの苦労の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、だれが知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまたむなしい。太陽の下でした苦労してきたことのすべてに、わたしの心は絶望して言った。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ」(コヘレト2:18-21)。
 労苦して産み出した物、一生をかけていろいろと努力してきたことが報われるとは限らない、それが現実だと言えます。

3.明日への備えについて
 所で、この金持ちは、大きな勘違いをしています。それは自分が貯めた財産で一生、楽に暮らして行けると信じたことです。曰く、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来た。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもうと」。
 将来を考えた時に、財産の蓄えが十分あるから、それが生命の保証のしるしになると言えるでしょうか。
 わたしたちは、あの東日本大震災以来、「明日への備え」ということに敏感になりました。大きな地震や津波がいつ襲ってきても大丈夫のように万全の備えをしています。スーパー等に行きますと必ずそこには「防災グッズ専用コーナー」があり、震災に備えての諸々の用具、器具が並べられています。「防災セット」には(水、非常食、缶詰、着替え、防災ズキン、携帯ラジオ、充電器、懐中電灯などが詰め込まれ)、被災に遭っても数日間は、生き長らえる道具で、これさえあれば「明日、何が起こっても大丈夫だ」と信じています。
 しかし、防災に備えることだけが明日への備えと言えるでしょうか。明日の生活のこと、老後のこと、病気や傷害を負ったときのこと、不慮の事故に遭ったときのこと、自身の身に何かが起こったときのこと、それに備えてどんな用意をしているでしょうか。
 わたしたちはそれに備えて相応の準備をしています。生命保険に、年金に、介護保険に、後期高齢者医療保険に入っていますので。今は国民が皆「明日に備えての保険」に入っていますので安心です。
 しかし、「明日に備える」というのは、単に防災の準備や体や老後に備える保険に入ることではありません。大切なことは、わたしたちの日々の生活を支えてくださる神や行く末のための祈りです。
 初代教会の神学者アウグスチヌスは、自らの生涯を振り返り、「わたしの心は、真の神に出会うまでは本当の平安はない」と告白しています。若い頃は、いろいろなことに目を奪われ、惑わされ、心が散々に乱れる、求めても与えられない不満。思い悩んだ時に、真の神に出会い、心の平安を得たというのです。どんなに多くの宝や喜びがあっても、真の神に出会うまでは本当の平安はないと言えます。

 わたしたちの日々の生活を通してイエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言いました。思い悩み、思い煩いの多い生活から神を仰ぐことです。「愚かな金持ちのたとえ」の後に、イエスは「思い悩むな」の話を入れています。
 「だから言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。鳥のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も、倉も持たない。だが神は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちだれかが思い悩んだからと言って寿命をわずかに延ばすことができようか(中略)。
 野の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きも紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように 装ってくださる(中略)。ただ、神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:22-32)
 生きること、生活のことで思い煩うわたしたち。その煩いを払いのけようと形あるものに身を預けます。しかしそれだけで十分とは言えないのです。イエスは、「神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。小さい群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。」と教えました。

 最後に、鈴木正久牧師(日本キリスト教団牧師)は、祈りについて、こう述べています。「わたしたちは、仕事も生活も健康も順調に行っているときは、それを当たり前のこととして感謝もなく、無自覚に過ごしています。しかし、一転して・・予想外の出来事や災難が襲ってくると、突如、神を引っ張り出し、なぜ神はこのような苦しみをわたしに与えるのかと神を恨めしく思います。しかし、祈りはいつ、どんな時にも、神を信頼し、その導きに聞き従うことができるように教えられたのだと言えます。
 イエス・キリストはわたしたちが人間であることを最高度に自覚させられます。もし食べ物や飲み物を求めるだけなら獣と同じです。人間として、さらに神の子として生きるように造られたわたしたちは神の国と神の義をこそ求めるべきです。
 『主の祈り』は、何のためにあるのか・・それは『人間として求めるべきもの』、『人間の名に値するものとして生き』ることの基本である」と(「主よ、み国を」から)


 
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2013/08/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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