津田沼教会 牧師のメッセージ
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「実を結ぶ民」(マタイ21:33~44)
マタイ21:33-44、2005・10・16、聖霊降臨後第22主日
イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

2005年10月16日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝(教会暦の色―緑)
説教「実を結ぶ民」内海望牧師(日本福音ルーテル教会引退教師・津田沼教会教会員)

 今日の最初の聖書イザヤ5章1節以下を読みますと、神さまがどんなに人間を愛し、そのためにこの世界をぶどう畑として整えて下さったか、また、「実ったのが酸っぱいぶどうであったか」ということを、悲しみをもって語っていらっしゃるかが書かれています。裏切られた悲しみがひしひしと伝わってくる詩です。
 今日のイエスさまのたとえは、そのことを聖書の歴史を通じて、聴くものに分からせようとされているのです。主人に遣わされた僕は預言者たちのことであり、主人の息子がイエスさまであることが言をまたないでしょう。預言者の歴史は殉教者の歴史であり、イエスさまの生涯は十字架の死なのです。
 聖書の歴史は、神さまの愛と、それを踏みにじる人間の罪との葛藤の歴史です。そして、その原点がアダムとエヴァなのです。「それを食べると、神さまのように目が開け、善悪を知る者となる」という言葉に負けて、アダムとエヴァは禁断の木の実を
食べてしまいました。
 そしてこの神さまが愛する者のためにきめ細かく心を砕いて創造して下さった世界をあたかも自分たちが創造者・主人であるかのように自分勝手に用いているのです。そして、僕たちを袋叩きにし、石で打ち殺してしまったのです。そして、最後には息子をぶどう園の外にほうり出して殺してしまうのです。神さまから世界を奪い取り、自分たちの物としてしまうのです。
 「人間が世界の主人だ。何が良いか、何が悪いか人間が決める」という罪が世界をおおっているのです。これが生態系の破壊、戦争、憎しみの原因となっているのです。真に[原罪]と言わなければなりません。
 さて、今日の譬えで、わたしたちが目をとめたいのは、祭司長たちや、ファリサイ派の人々の態度です。
 彼らは、イエスさまがこの譬えを語られるのを聞いて、イエスさまが自分たちのことを言っておられることに気づき、イエスさまを殺害しようとしたのです。ある意味で、彼らはこのたとえを正しく聞いたといえましょう。自分たちの行っていることに気づかされたのです。しかし、彼らは悔い改めることをしないで、反対にイエスさまを殺そうとしたのです。
 それで弟子たちは、何よりも私たちはどうでしょうか。私たちは、「本当に世界は罪に満ちている。確かにイエスさまがおっしゃる通りだ」と慨嘆することはあるでしょう。そして私たちがしっかりしなければいけないと考えるのではないでしょうか。
 しかし、そのような読み方こそまさに人間の落とし穴なのです。旧約聖書のダビデのことを思い出して下さい。彼は王の地位を利用して、忠実で、勇敢な部下のウリヤ将軍の妻を奪い取り、あまつさえ彼をいちばん激しい戦場に送って戦死させてしまったのです(サムエル下11章以下)。そしてウリヤの妻バト・シェバを自分の妻としてしまったのです。しかし、おごり高ぶっているダビデには罪の意識はありませんでした。自分の願い・欲望が満たされたことに満足していました。ダビデは預言者ナタンから自分の行ったことを譬えで聞かされました。それでも、ダビデにはまだ他人事でとして聞き、「そのような男は死罪に処するべきだ」と激しく怒ったのです。
 その時、預言者ナタンは勇敢にも、「その男はあなただ。」と鋭く指摘したのです。その時、ダビデははっと我に帰り、心から悔い改めたのです。そしてあの詩編51編を謳ったのです。「1.2.3.4.9節」にダビデの切々たる罪の思い、悔い改めの心情が表れています。
 翻って、私たちの日々の生活、心の思いを神さまの前で点検してみましょう。私たちも神さまよりこの世の幸いを大切にし、自分中心に生き、人を裁き、自分は祭司長やファリサイ派の人々とは違うと何食わぬ顔をして生きているのではないでしょうか。イエスさまをぶどう園の外にほうり出して平気で生きているのです。「今、ここにイエスさまが来られたら十字架などに決してつけないだろう、と言う人は反省しなさい。君は真っ先に『十字架につけよ』と叫ぶ群衆のひとりになるのだ」と激しい言葉を語った人がいます。私たちはイエスさまに心の奥底まで見抜かれることに耐え切れなくなるのです。そしてイエスさまを殺す側に立つのです。
 そうであってはならないのです!!私たちはダビデのように遅ればせでもよい、心から「自分こそ死罪に当たる人間です。私を助けてください。私の心を新しくし、雪のように白くして下さい!」と心から懺悔し、悔い改めることが大切です。
 その時、私たちはイエスさまが「神の国は新しい、実を結ぶ民に与えられる」という約束を恵みの言葉として聞くことになるのです。新しい民として出発できるのです。
 自分を神とする生き方、自己絶対主義を捨て、新しい神の民、罪赦された恵みに生きる民の一員として歩みましょう。
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2005/10/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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